う飄々(仮)

いうてまじめやで。

良きにしろ悪しきにしろ

 

村上春樹のことが書かれている文章にはおもしろいものが多い。

 

村上春樹の「好き」「嫌い」はどこで分かれるのか? に関する一考察 - (チェコ好き)の日記

 

これとかすごくおもしろかった。

書籍では、大塚英志斎藤環三浦雅士あたりが書いている村上春樹論がおもしろかった。

僕は村上春樹は主観的な好き嫌いを論じる作家だと思う。客観的ないいわるいじゃなくて。その意味で上のリンクの記事はタイトルからして「大丈夫な」文章だろうと予想できた。実際読んでみると大丈夫どころかとてもおもしろかった。

村上春樹の書くものが好きだからなのかもしれないけど、村上春樹に否定的な文章でこれぐらいおもしろい文章を僕は読んだことがない。

否定的で、しかもある程度以上の長さを持つ文章の多くは、客観的にこういうところが悪い、というようなことを言いたがっている。僕はなにも客観的な文章というものはあり得ない、すべて文章には主観が入り込まざるを得ない、というようなことを言いたいのではないが、客観的な文章というものは単純につまらないと言いたい。「客観的に客観的に」と書かれた文章が村上春樹のおもしろい小説に対して文句をつけようとしても、そこには決定的なすれ違いがあって2つは永遠に交わらないんじゃないかと。

嫌いなら嫌いでいいと思うけど、それを客観的に叙述しようとするのは滑稽だ。それを伝えるには、おそらく内容の筋道よりも言及の工夫が必要なのだと思う。そして、そういうことをうまくする人は「村上春樹があわない」と思っても、いちいちそんなことにはかかずらわないで、自分でおもしろいことを言ったりやったり、好きなものに関してその良さを謳ったりしている。嫌いなもののところにわざわざ残るのはつまらない人ばかりだ。

 

ただし、世の中には嫌いなものを腐して楽しみに代える術をもっている人たちもいて、その人たちからも村上春樹はとくに愛好されている(ようにみえる)。その人たちが言うことは別に耳をそばだててまで聞くほどのことでもないが、それでもとても楽しそうで何気ない一言に笑わせられたりもする。おもしろい人はこっち側にもいる。

そういう人たちにとっては村上春樹は「ネタ」のひとつでしかない。「スパゲッティを茹でる」「やれやれ、射精した」などの符牒を言って笑い合う程度の罪のない遊びに興じているだけだ。

しかし、マジメに「村上春樹けしからん」をぶってしまう人も中にはいて、彼らは客観性に配慮した文章を書く。そこに前述のネタ勢が「そうだ」「同意」とか言って乗っかる。だがネタ勢たるもの、村上春樹の小説はもちろん、記事そのものさえろくに読んでいないはずだ。

雰囲気に流されてでも一応は読んだほうがいいのか、べつに読まないでも雰囲気に乗れるならわざわざ労を割いてまで読まないほうがいいのか、けっこう難しい(が、どうでもいい)問題だ。ファッションの人とネタの人は似ていて、たまに区別がつかない。

 

「いいわるいはおいといてそうだ」と言うとき、良し悪しのあとに残るのは「客観的な事実」だと勘違いしている人たちは多い。しかし、村上春樹の小説において残る「そうだ」の中身は客観的な事実などではなく、主観的な好悪だ。本人の「見方」がそこに現れているにすぎない。とはいえ、それを「事実」と呼んでもかまわないし、そのように読んで何ら問題ないように小説は書かれている。村上春樹によって構築された小説世界にどっぷり浸かりながらその小説を思うさま罵るというのも、本人がそれに気づかないうちは楽しめることだろう。気づいてそうしているのなら乙なものだ、と言ってもいい。*1

一方、アンチの「ガチ勢」がいる。客観性のダンボールに隠れているつもりで尻尾が見えていて、しかも隠れている本人は真剣そのものといった場合、基本的には「滑稽」で済ませられることではあるが、心が疲れているときなど、それが悲壮に見えてしまってつらいことがある。

そういう心配というか、よけいなストレスなく楽しめるのは、やっぱり主観的に書かれた文章だ。「村上春樹は気取っていて嫌い」の一文をどう料理するのか。引き伸ばせば引き伸ばすほど、その人の地が出てきて興味深くなることもあるかもしれない。同じガチ勢でも僕はこっちを支持する。

 

主観で書かれた文章は、共感するにしてもトンチンカンなやつだと一蹴するにしても、自分自身の主観と照らしあわせて享受しやすい。主観vs主観なので気兼ねすることもない。しかも、誰にとっても「自分の主観」というのは主観バトル最強の存在だ。読者はラクに無双できる。

それにもかかわらず小説家は、あるいは表現者は、「いいわるい」ではなく「好きだ嫌いだ」の世界でやっているのだ。そこへ「いいわるい」の話を持ち出すことの愚を本当に意識してほしい。主観一本で修羅道をいく相手に向かって「客観的には」って、お前は神さまなのか、*2と思う。

「好きだ嫌いだ」の世界を渡り歩く人たちは、「嫌われたくない」とか思って何かと尻込みする自分なんかとは、良くも悪くも、ものがちがう。

客観的に言って、僕は好かれるのは好きだが嫌われるのは嫌いだ。

でもはっきり言って、共通の話題として何かを腐して喜ぶ遊びは大嫌いだ。嫌いなことを表明するのが嫌なんじゃなくて、まあそれも嫌だけど、嫌いなことを表明するのが「許されている」ということに「乗っかって」嫌いなことを表明する奴らが嫌で嫌でたまらない。たまにおもしろくてつい笑ってしまうという救いもないではないけど、つまらないそれを見せられると、その人の存在そのものが無意味に感じられてかなしくなりさえする。

 

さいごにひとつ言っておきたい。僕は五木寛之が嫌いだ。

白髪には憧れがあるんだけど、五木寛之は世界で一番ダサいロマンスグレーの持ち主だと思う。説教臭い小説ならまだしも、つまらない新書かいて食いつなごうとするケチな了見でダンディ気取りやがってダボが、と満腔の嫌悪感を隠せない。

あとは伊集院静も気に入らない。村上春樹が気取ってるという人は彼らの気取りようを一体どう思うんだろう?ザコ扱いして取り合わないのならわかるけど、彼らのは許せるというなら、僕はそういう奴らもまとめて許せない。

 そんな残念な奇跡みたいな奴はいないとは思うけど、もしアンチ村上春樹五木寛之伊集院静のファンがいたら、そいつらとはハリセン持ってシバき合いたい。非力な僕でも普段出せないほどの力が出せそうな気がする。

 

 

 

*1:真剣に「村上春樹けしからん」と思っている人たちのことはどう思っているんだろうとは思う。

*2:お客という名の。