う飄々(仮)

いうてまじめやで。

生類憐れみの記

 

僕の目は曇ってしまった。

何かよくないことが起こって僕の目は曇ってしまった。物事が鮮明に見えていたはずなのにいつの間にか玉手箱が開いて視界がぼんやりするようになった。物の形にくっきり輪郭があったのが昔のことになってしまった。

そういう経験はだれにでもあるものだと思う。ボケてしまった老人は遠くの記憶を目の前に感じ、近くの出来事を遠く離れて感じるらしいけど、それに似たような感覚がある。今やっていることは今やっていることとして普通に目の前に感じられるけど、思い出ほど迫真ではない。現実感の強弱が逆転してしまっている。

一本の糸のほつれから全部ばらばらになるような強力な強迫観念がかつてはあった。今はない。ばらばらになったあと、という感じがする。それでもライフはゴーズオン、なんてありきたりな歌の文句そのままの感覚で、どうして前を向こうとか歌えるのかわからないけど、べつに何だってありだっていう気もするからそれもいいかと思い直す。

本当に夢のなかに生きていた。

竜宮城に行って帰ってきた浦島は村の生活なんかできないと思う。ピークを過ぎて、竜宮城に戻ることだけを夢見て生きることは虚無だ。村のお祭りが気晴らしでしかないことが一瞬ごとに感じられる。熱気が高まりボルテージが上がるほど、つめたい針の一刺しが深く食い込む。おもしろいのはおもしろい。でもつまらなさすぎる。玉手箱を開けるしかない。時間を矢のように飛ばすことだけが救いなんだと思う。

何もかもどうでもいい。

安危にかかわる判断を自動で「安」に行くように設定しておけばそれだけで充分。痛い思いはしたくない、苦しい立場に立ちたくない、つまらない気分になりたくない、だからその逆を取ろうと工夫する。祭りがあれば踊りに出かける。絵の展示があれば見に行く。それらは気晴らしになる。涙を流す程度に感動することもあれば、おかしくて膝を打って笑うこともある。

おもしろいおもしろいおもしろい。

三回唱えてもダメ。決定的に何かが足りない。それは形而上学的なものなのか、宗教か、ラブか、ピースか。

死ぬほど終わってる気がするけど、死んじゃいない。事実として死んでないけど終わってはいる。忙しく働いたり立ち動いたり運動してみても始まる気さえしない。はじめの方はとりあえず動けば錯覚で始まる気がしたものだけどそれもすぐにどっかに消えてしまった。

おもしろい本やおもしろい映画を見るとそれが記憶を刺激してくれて鮮明なイメージが得られるから最高だ。こんなふうに思い出資源を汲んで生活している。スタートアップの錯覚(好奇心)と、井戸の水、これがバイタリティの源。これさえあれば一生分くらいは優に持つ。知らんけども。

だましだましやっていく方針を固めたのは夢のなかでのことだった。これは夢のなかかもしれないけど、まあ、それはそうと、たのしいなあ!たのしい!と、言ってやっていた。

本当に楽しかったからそれでよかった。

本当に楽しかったからそれでいい。

 

それでよかったこととそれでいいことはちがうことのはずだけど、曇った目にはその境目が見えないしオール・オッケーみたいになってしまいそうでそれはいやだ。今の僕が吸っているダメな空気を1ミリでもあの時のきれいな空気に混ぜたくはない。

あの空気はすべてのダメな空気と隔絶されていてほしい願望がある。他人なんていらない。宗教もいらない。証明されてほしいとは思わない。マイクはいるけどステージはいらない。表現が自分を社会につなげようとするのがどうしてなのか理解できない。

 

えー、おほん。……来年は僕の目に鮮烈な輝きが映りますように。

みなさまも良いお年を。