う飄々(仮)

いうてまじめやで。

生類憐れみの記

 

僕の目は曇ってしまった。

何かよくないことが起こって僕の目は曇ってしまった。物事が鮮明に見えていたはずなのにいつの間にか玉手箱が開いて視界がぼんやりするようになった。物の形にくっきり輪郭があったのが昔のことになってしまった。

そういう経験はだれにでもあるものだと思う。ボケてしまった老人は遠くの記憶を目の前に感じ、近くの出来事を遠く離れて感じるらしいけど、それに似たような感覚がある。今やっていることは今やっていることとして普通に目の前に感じられるけど、思い出ほど迫真ではない。現実感の強弱が逆転してしまっている。

一本の糸のほつれから全部ばらばらになるような強力な強迫観念がかつてはあった。今はない。ばらばらになったあと、という感じがする。それでもライフはゴーズオン、なんてありきたりな歌の文句そのままの感覚で、どうして前を向こうとか歌えるのかわからないけど、べつに何だってありだっていう気もするからそれもいいかと思い直す。

本当に夢のなかに生きていた。

竜宮城に行って帰ってきた浦島は村の生活なんかできないと思う。ピークを過ぎて、竜宮城に戻ることだけを夢見て生きることは虚無だ。村のお祭りが気晴らしでしかないことが一瞬ごとに感じられる。熱気が高まりボルテージが上がるほど、つめたい針の一刺しが深く食い込む。おもしろいのはおもしろい。でもつまらなさすぎる。玉手箱を開けるしかない。時間を矢のように飛ばすことだけが救いなんだと思う。

何もかもどうでもいい。

安危にかかわる判断を自動で「安」に行くように設定しておけばそれだけで充分。痛い思いはしたくない、苦しい立場に立ちたくない、つまらない気分になりたくない、だからその逆を取ろうと工夫する。祭りがあれば踊りに出かける。絵の展示があれば見に行く。それらは気晴らしになる。涙を流す程度に感動することもあれば、おかしくて膝を打って笑うこともある。

おもしろいおもしろいおもしろい。

三回唱えてもダメ。決定的に何かが足りない。それは形而上学的なものなのか、宗教か、ラブか、ピースか。

死ぬほど終わってる気がするけど、死んじゃいない。事実として死んでないけど終わってはいる。忙しく働いたり立ち動いたり運動してみても始まる気さえしない。はじめの方はとりあえず動けば錯覚で始まる気がしたものだけどそれもすぐにどっかに消えてしまった。

おもしろい本やおもしろい映画を見るとそれが記憶を刺激してくれて鮮明なイメージが得られるから最高だ。こんなふうに思い出資源を汲んで生活している。スタートアップの錯覚(好奇心)と、井戸の水、これがバイタリティの源。これさえあれば一生分くらいは優に持つ。知らんけども。

だましだましやっていく方針を固めたのは夢のなかでのことだった。これは夢のなかかもしれないけど、まあ、それはそうと、たのしいなあ!たのしい!と、言ってやっていた。

本当に楽しかったからそれでよかった。

本当に楽しかったからそれでいい。

 

それでよかったこととそれでいいことはちがうことのはずだけど、曇った目にはその境目が見えないしオール・オッケーみたいになってしまいそうでそれはいやだ。今の僕が吸っているダメな空気を1ミリでもあの時のきれいな空気に混ぜたくはない。

あの空気はすべてのダメな空気と隔絶されていてほしい願望がある。他人なんていらない。宗教もいらない。証明されてほしいとは思わない。マイクはいるけどステージはいらない。表現が自分を社会につなげようとするのがどうしてなのか理解できない。

 

えー、おほん。……来年は僕の目に鮮烈な輝きが映りますように。

みなさまも良いお年を。

 

思考停止と言われても

 

二つの価値観を同時に持つというのは不可能なことなのか。

自分ではその訓練をしてきたつもり。訓練というか実験?

今までのところ全部失敗に終わっているわけだけれど。あぶはちとらず、どっちつかずの半端者に終始している。これからもそうだろうと思う。僕は二者択一を拒み続ける。

究極の選択、あなたはどっち?というような思考実験がある。濁流に飲まれそうになっている大事な人、それぞれ別のところにいて、助けられるのは片方だけ、あなたはどっちを助ける?みたいなやつだ。ビュリダンのロバじゃないけど、一歩も動けないままゲームオーバーになりそうな予感がある。まあそうは言ってもそんな極端な問いがおかしいのであって、実際にそんな場面に直面することはないから考えるに値しない、と考えることはできる。はじめから思考を放棄するのだ。

極端な二者択一を迫られるから思考放棄で対抗する、というのは結構適切な回答だと思う。問いに無理があるなら無理して答える必要はどこにもない。トロッコの線路を切り替えて一人を犠牲にして五人を救うか、それとも切り替えることはしないで流れに任せるか、という質問は馬鹿げていると思う。そんなこと現実で起こりえないし、そもそも与えられている情報が少なすぎる。

しかし現実にそういう選択の機会が現れることはある。思いもよらない形で、もっとミニマムな形で、あとから考えれば決定的だがそのときには決定的とは感じられないような形で。

本当に厄介なことに、そのときにはどちらかを選んでしまう。選んだ意識があろうがなかろうが、決定的な選択は済んでしまう。一歩も動かないでいるということはできない。というかその選択肢はまったく浮かばない。存在しないもののことを考えることはできない。あとになってから存在したはずのことを考えることはできる。そのときにはその選択肢はちゃんと存在するし、そのことについて考えることもできる。ただ決定的な瞬間は過ぎている。

だからあらかじめ価値観を選んでおくということはうまい手なのかもしれない。そうすれば細かな間違いは起きても大まかなところでは間違えない。ひとつの価値観を選びとって生活する利点はここにある。視野を狭めて遠くまで見通すイメージだ。大事なことほど迷わない。迷うことをウジウジ考えると捉える視点はここを基準にしたものだと思う。

一方、あれもこれもというタイプは価値観にも欲をだす。ひとつの立場で考えながらも逆の立場にも立ってみたいという望みを抱いてしまう。「隣の芝は青い」というのを真理だと考える。他人のものだからいいと思うのではないが、自分が今いる場所ではないどこかにすばらしい場所があるのではないかとつい妄想してしまう。移動することを重要視する。行くときにも行きっぱなしではなく戻ってこれるかどうかということをつねに念頭に置く。行って帰ること、行ったり来たりすることを無駄だとは思わない。

行ったり来たりすることは、当人の内面に立って考えることができないものにとっては無駄な意味のない移動としか思えない。ゴールを持っている人にとっては目的地にどれだけ近づいたかということが大事なのであって、行きつ戻りつではプラスマイナスゼロにしかならない。三歩進んで二歩下がるは許容できても、三歩進んで五歩下がるは残念に思えても、三歩進んで三歩下がるは認識できない。はじめから存在しないものとしてカウントもされない。動いていないと見なされる。正確には動いていないとも見なされない。何にも見なされない。だが実を言うと、他人に何にも見なされないこのスペースこそ当人には理想の場所だ。いろんなことを知ったり楽しい思いができてまた同じ場所に帰ってこれるとすれば最高以外の何物でもない。自分の家から隣の芝の青さを確認できるのが一番だ。ただしそんなことは不可能だ。

だから変化を成長と呼ぶことで気を晴らそうとするのが目的を持って生活することの意味だ。精神的に向上心のないものは馬鹿だ、というのをシニカルに見つめるのは本当の馬鹿だ。気晴らしにすぎないことを気晴らしにすぎないと言うものは馬鹿だ。思ったことを口にしないではいられないその態度のことを少しでもシニカルに見つめれば、変な笑いがこみ上げてくることだろうと思う。

あれもこれもという考え方はシニシズムにつながりやすいと思う。両方の立場に立って見ると片方に固執する人間が愚かに見えてしょうがない。欠点だらけのその立場にどうしてこだわるのかと思わないではいられない。

一方で懐疑的な人間ほど真っ直ぐ立つ人間のよさにも目が行ってそういうところに憧れる。自分もそうなりたいと思ったりする。でもそれができないことを知る。そのときが自分が決定的な選択を避けてきたつもりで引き返せないほどの選択をすでに済ませてきてしまったと気づくときだ。そして引き返したいと思ってその方法をウジウジ考える。

三歩進んだところから三歩戻るにはどうすればいいのか、その距離を正確に再現できるか、経過時間をごまかせそうか、そういうことを考えるのに時間を使う。

 

 

ノット・トゥ・レイト

ノット・トゥ・レイト

 

 

発表!【2013映画ベストテン】

 

さあさあ!やってきましたよ年末が。

今年の映画ベストテンはどんなラインナップになるのでしょうか。
映画ベストテンはわたくしが映画館で見た作品のみで構成されております。
御託はこれぐらいにして、さっそく行ってみましょう!!
 
まずは邦画から!

【邦画ベスト10】
  1. 風立ちぬ
  2. ニュータウンの青春
  3. 地獄でなぜ悪い
  4. かぐや姫の物語
  5. 許されざる者
  6. 舟を編む
  7. ドラゴンボールZ神と神
  8. 探偵はBARにいる2
  9. 東京家族
  10. 中学生円山
 
 
邦画ベストは風立ちぬに決まりました。ニュータウンの青春もよかったけど、やっぱり風立ちぬ強かった!ちなみに、今シーズン劇場に二度足を運んだのは洋邦合わせてもこの二作だけです。横道世之介iTunesレンタルで見たため今回エントリーされませんでしたが、もし映画館で鑑賞できていればトップに食い込んできていた可能性があります。かぐや姫の物語までの5作品がかなり強かった。今年は邦画に勢いがあった年でした!
 
では続いて洋画ベストテン!ドン!!
 
【洋画ベスト10】
 
洋画も今シーズンは粒ぞろいでした。ブラピとディカプリオというツートップがかなりコンスタントに点を獲っていった印象です。ゼロ・グラビティに関しては映画館で観ることが出来て感謝です。華麗なるギャツビーはキャスティングの時点で勝負ありという感じ。とにかく、トラッドならぬフェイク・トラッドとでもいう絶妙な衣装含めて造形の趣味が合いまくりまクリスティー!きっと、うまくいくはボリウッドの知名度と好感度をぐーんと向上させたすばらしいエンターテインメント作品でした。それから今回一番悩んだのはジャンゴとゼロ・グラビティの順番。見終わった直後ということで補正ある気がしたのであえてジャンゴを上にしました。しかし時間が経てばかえってゼロ・グラビティが浮上してくる可能性は十分あります。
 
いやあ、つい言葉が多くなってしまいますネ!このまま総合ベストテン行きます!
 
【総合ベスト10】
 
  1. 風立ちぬ
  2. ニュータウンの青春
  3. 地獄でなぜ悪い
  4. 華麗なるギャツビー
  5. きっと、うまくいく
  6. ジャンゴ
  7. ゼロ・グラビティ
  8. かぐや姫の物語
  9. クラウドアトラス
  10. 許されざる者 
 
許されざる者おめでとう!重い感じの映像よかったよ。もっとできたんじゃねえかと思わないでもないけど、というか期待感が強くなりすぎる企画だった気がします。
クラウドアトラスは壮大でカタルシス半端無いし集中を要するから見ていて飽きない良作でした。
かぐや姫の物語はもっと上でもいい。俺もそう思う。記憶を味方につけている作品だからこれから上がっていくと思う。
ゼロ・グラビティはすごかったもんねえ。映画に数えていいのかわからない気持ちがこのあたりに留める結果になったね。メンゴ☆
ジャンゴー♪
きっと、うまくいく〜♪
華麗なるギャツビーのギャツビーはあんまりうまくいかなかったけど、切なくてよかった。ニックが最高。ああいう狂言回しの役似合いすぎるだろ名前ど忘れしたアイツ。
地獄でなぜ悪いは打ち上げ花火みたいな感じであっという間に終わっちゃった。スピード感半端じゃないし目が痛くなっちゃうほどドギツイ。最高。1位。
ニュータウンの青春の青春は俺自身の青春でもある。そう思わせるほどのリアリティが画面に横溢していた。むしろちょっとはみ出てたんじゃねえかな本当のところ。ダントツ!
風立ちぬは二郎が慌ててずっこけるシーンがあったよね。あれですべてが決まりました。ラストは納得するのはむずかしい。でもそうだとしてもあのシーンがあれば何も文句をつけるわけにはいかない。くるしい映画だった。
 
いやあ。すばらしい映画を並べるとあれだね。テンションが上がるね。ぐんぐんアガってるぐんぐんを手で掴めそうだ。
総括すると今年はエンタメ系が多かった。というかほとんどシネコンで見た。ミニシアター系がぜんぜんない。一応ちょっとは見たんだけどランキングされず。アンナハーレントを見送ったのはやっぱりミスだったかもしれない。
最後にワーストスリーも発表する。まあ恒例だからしょうがない。
 
 
ワースト3
はじまりのみち
 
期待感が大きかったのに全然ダメだったはじまりのみち。河童のクゥと夏休みもカラフルも大好きだったんだけど監督初の実写ということであんまりコントロール出来ていなかったんじゃないかと思う。タイミングよく木下恵介二十四の瞳を見たあとだったからよけいガッカリしたです。
世界にひとつのプレイブックはいたって普通、に、つまらなかった。ラブコメ自体むいてないのかも。
東京家族はよかったです。一応ベストテンにも入っているし。ただ今年は小津安二郎の映画を時系列順にざあっと通しで見たりしたので、そことの比較でこうなるって感じ。そもそも小津と比べるのはきびしいけどそれもしょうがない。企画がよくなかった。
 
ちなみに映画館で見た総数は【27本】
DVDなど含めてだと【61本】
 
いやはやめっきりだな〜。さみしい。来年は100目指していきたいと思いました。 おわり
 
 
 

「かぐや姫の物語」思い出されること

 

 

かぐや姫の物語を見た感想というか文句

http://ryryoo.hateblo.jp/entries/2013/11/28

 

先日、かぐや姫の物語を見たあとの感想を書いた。読み返してみたらひどいと思った。とくにラスト一行。

 

退廃的な匂いがする。僕の鼻がおかしくなければ。

 

・・・・おめえ誰だよ。鼻、おかしいよ。

書いたときに自分の鼻が変に敏感だという疑問を持っていたからこういう書き方になったのだと思うけど、それにしても、退廃的というのはあまりにも的はずれだ。

うまく言葉が見つけられないまま適当に言葉をあてはめて済ませた感がある。それこそ退廃的だ。なんのことはない、自分の鼻のなかに匂いの原因があったのだ。別に自虐でこういうことを言うのではなく、過去の自分という他人を叩いているからオーケー。何がオーケーなのかわからないが。

叩いた以上フォローしておくと、月にまつわるいろいろのことがあまりにもルナティックで、白々しく感じさせられたというところに不満があった。ネタバレだけど言ってしまうと、ラスト、月にかぐや姫の顔をはっきりと描くやり方はウケを狙っているようにしか見えなかった。そうだとしたら途轍もなくスベっているわけだけど、まさか高畑監督があんなところで笑いを狙うわけもないと思うから自分のなかに生まれた笑いの感情の持って行き場がなくなって集中を妨げられたのだ。自分のなかの笑いの感情が状況的にいやな笑いとして自分自身の目に映された。逆説的だけど侮辱されたように感じた。では監督にそういう意図があったかといえばそんなはずもなく完全に被害妄想なんだけど、異化効果という言葉をなまじ知っているせいもあって、なくもないと思わさせられた。

でも最近、寝る前にかぐや姫の物語のことを思い出したりする。

そのときに思い出すのは月にまつわることではなく、地球にあるものごとばかりだ。たけのこの笑顔とか、たけのこの庭とか、桜の花びらがひらひら舞い落ちる様子、求婚しに行く男たちの滑稽だけど妙に胸を打たれる様子、アゴ、そういったものばかりが断片的に思い出されて心が暖かくなる。

記憶のなかにあって完成する作品のように感じられる。鮮烈なイメージで描かれているからこそ記憶のなかにつよく留まっていて、ふとしたときに思い返して再度感動させられたりする。

もしかするとそういう感動はあの月の世界の描き方によってもたらされたものかもしれないと思った。たんに被益妄想かもしれないけど。

こういう見方をしているから僕には「姫の犯した罪と罰」というコピーはしっくりこない。結構ノイジーにも感じられる。ただ、純粋にいききらないためにそういう抑制もまた必要なのかもしれない。パーフェクトワールドを白々しく描くというのはおそろしく自制的な姿勢だと思う。なんというかすごい。ものすごい。

 

退廃的な匂いがする。

  

『ドライブ・マイ・カー』のフック

 

文藝春秋に掲載された村上春樹の短編小説を読んで思ったことを書き残しておく。最近、村上春樹について書きすぎているような気がしてすこし心配になるけど、これについては書かないわけにはいかない感がある。

『ドライブ・マイ・カー』という小説。俳優が主人公。ありそうでなかった村上春樹×演劇。あるのかもしれないけど。

村上春樹はとても上手な作家だと再確認させられた。文章が読みやすい。文意が明確で、意味・内容の取り方の点で引っかかるところがない。文体も平易なので読んでいて立ち止まらせられることがない。だからといってのっぺりしているというわけでもなく自然なリズムがあって読み進めやすい。何より大事なのがそう書くしかないと思わせるように書いているところ。リーダビリティを高めるということはともすれば迎合的ないやな匂いをさせることにもなりかねないが、村上春樹の場合はそうはならない。読みやすくするということを本気で望んでいるのが伝わってくる。サービス精神というものから十分な距離を保てているからこそ、こっちも余計な遠慮抜きにリラックスできる。物語や書かれた文章に集中するにはリラックスできるかどうかが重要なポイントになると思う。また、万人にとって読みやすいわけではないが、むしろ万人受けしないというのは大切なことだと思う。読者にちょっとしたブルジョワ感を持たせてくれるからだ。「人はどうかわからないけれど自分はおもしろい」と言えることは、それ自体が素敵なプレゼントになると思う。

文章が読みやすいというのは、それだけでは上手な作家の条件として必ずしも十分でない。先に意味・内容の取り方の点で引っかかるところがないと言ったが、意味・内容の点では引っかかるところはむしろ多い。これこそが村上春樹の特徴だと思う。

まずフックが多い。そしてフックの形状がうまく引っ掛けやすいように整えられている。個人的なサイズにフィットする針の大きさで、それが読者にうまく刺さる。

個人的なことでいうと、【黄色い車・俳優・北区赤羽・知は無知にまさる・失くした時のかなしみを想像して胸が痛む・ワーニャ伯父さん・盲点】、このあたりが自分にとってのフックになった。

小説を読むとき、人は無意識のうちに自分との共通点を探す。そして共通点を見つけると、それが小さいものでも、場合によっては小さいものほど「同じだ」という思いを持つ。列挙したなかではワーニャ伯父さんよりも北区赤羽のほうがつよく同じだという思いを得ることができる。ワーニャ伯父さんは演劇好きなら誰でも触れたことのあるであろうチェーホフの作品で、北区赤羽はつかこうへいの出身地で都内でもとくに演劇に力を入れている街だ。どちらも演劇にちなんでいるといえるが、それが見えにくいのはより小さな北区赤羽の方である。偶然に彩られた共通点には運命を感じることができる。

たとえ妄想であっても関係ない。「同じだ」と思えば興味を持つ。そして一度興味を持てば、続きにラブソングの歌詞のような内容が書かれてあったとしても「同じだ」と思うことになる。たとえば、失くした時のかなしみを想像して胸が痛むというのは評論や批評においてはただ一言「喪失感」で済まされるありがちな感情で、文学的新しさのようなものからはほど遠い。しかし、だからといってつまらないと切って捨てられるものではない。このとき、他ならぬ自分の内では批評言語的な喪失感とはまったく別のものになっている。自分自身の記憶の上にある何かと直接結びつく。そのための入り口がひとつひとつのフックであり、そのようなフックになりうるこまごました要素や単語をつぶさに、さり気なく置いていくことで村上春樹の小説は成り立っている。ホテルのアメニティのように、具体的な匂いを消し指紋を拭きとって自分だけのために用意されていると感じさせるように丁寧に配置されている。

それにしても、本当に自分のために書かれたと思わせる小説だった。自分はそういう受けとり方をしやすい傾向があって、今までも小説を読んでは自分のために書かれていると感じ続けてきたようなものだが、それにしても、『ドライブ・マイ・カー』は本当に自分のために書かれたと思わせる小説だった。これが今年書かれたというのは、いくらなんでもタイミングが良すぎると思った。

タイミングがあうというのも「同じだ」の感覚を強調する。自分は相当ラッキーだと思う。

 

 

愛をひっかけるための釘 (集英社文庫)

愛をひっかけるための釘 (集英社文庫)

 

 

映画「ゼロ・グラビティ」を見て宇宙へ行こうプロジェクト

 

映画「ゼロ・グラビティ」を見てきました。

この映画に関しては、見た人それぞれの感想とはべつに、統一された意見があると思います。すなわち「映画館で見るべし」。

映画館で映画を見ることのリッチ感が僕は好きなので、すべての映画をできれば映画館で見たいと思っているんですが、現実には難しいです。そのため映画館で見る映画とDVDや配信レンタルで見る映画との線引きを行なっています。たとえば、僕の場合は最近だと「かぐや姫の物語」と「新編まどか☆マギカ」の間で線を引いていたりします。このあたりだとどちらを映画館で見るかという判断は分かれるところだと思います。もちろん両方とも映画館で見るというのがより正解に近く、両方とも家で見るというのは正解じゃないと僕なんかは思いますが、あくまでも一意見という感じがします。

引き比べて「ゼロ・グラビティ」は、映画館で見るか、それとも見ないかという二者択一になると思います。3Dというのもこの映画においては重要な要素になっていますが、それにしても3Dテレビで代用が効くものではありません。関係者でもなんでもないですが映画館冥利に尽きる映画だと思います。正直なところ、映画館で映画を見るというのは、とくにドラマ系だとあまり蓋然性がないと思います。リッチ感・プレミアム感・ラグジュアリー感というのはそんな蓋然性を補ってあまりあるものだと個人的には思っていますがそうは思わないという人がいたとしてもびっくりはできません。一方、スペクタクル系は映画館で見たほうがその醍醐味がより味わえるというのは意見の普遍性が強まるように思います。僕自身もどうしても迷ったとき、決められないけど両方見られないというときには大きいスクリーンにより映えそうなのはどっちかということを最終判断材料にすることがあります。大体はその前に見るときの気分で決めますが。

この二分法でいうなら「ゼロ・グラビティ」は第一にスペクタクル系です。宇宙空間を描き出すことにかなりの力が注がれているからです。まず一大スペクタクルが展開されます。

そして第二にドラマ系です。宇宙空間のリアリティが伝える圧倒的な状況において、サンドラ・ブロックジョージ・クルーニーが扮する人物、ちっぽけで非力というよりは無力な存在がチラッと星が瞬くように輝くさまはサンテグジュペリの小説『人間の土地』を思い起こさせます。これは宇宙空間の描写がしっかり伝わるからこそのものです。十分に暗くなければ目視で確認できない小さな小さな光です。

ゼロ・グラビティ」はドラマがスペクタクルと密接に結びついています。ドラマを見ることができる映画に間違いないとは思いますが、それもスペクタクルあっての物種です。その意味で高級なドラマと言ってもいいかと思います。2200円は十分リーズナブルです。これより以上に宇宙空間を体験できる機会はまず無いでしょうし、もしできたとして無重力体験などでしょうが、もっともっと値が張ると思います。

それに本当の体験というのは、ちょっと意味合いが違ってくるように思います。劇中でサンドラ・ブロックは博士として宇宙に行っており、いわばゲストの立場で、観客に近い存在です。トラブルが起こる前の彼女が「宇宙って美しい。静かで、すばらしい」というその感想ははっきり言ってテレビで見てるのとまったく変わらないものだと思います。しっかりと安全と結び付けられた感想で、それはそれで否定するべくもないし、リアルじゃないなどと言うつもりもないのですが、無重力体験の延長線上でしかないようなどこか牧歌的な感想に聞こえます。

その後のシーンでジョージ・クルーニーが同じような台詞を言うときにはまったく同じようで全然違う感想に聞こえます。どことも結び付けられずに虚空の只中で見る景色こそ、テレビでは見られないものなんじゃないでしょうか。死に包まれているその目で見ないと宇宙の美しさは捉えられないんだと思います。ジョージ・クルーニーの目を通して宇宙を見るという体験こそがリアルな宇宙体験なんだと思います。僕は宇宙に行きたいという意見を聞くたびに、内心で無邪気なもんだよと思っていました。僕は死にたくないからです。でも宇宙に行きたいという気持ちはわからなくもない。ようするにスペクタクルを見たいということなんだと思います。テレビで見る以上のものを見たいという気持ちはたしかにあります。でもそれを見るときは死ぬとき、もしくは死にそうな目に遭うときです。でもそれはちょっと・・・・。

そこで「ゼロ・グラビティ」です。悪いことは言わない。映画館で見たらいいです。

 

ここまでのは鑑賞者の総意で、ここからは個人の感想になります。

 

字幕と吹き替えがありますが、これは悩みどころだと思います。僕は普段は絶対字幕で見る派なのですがこれは吹き替えで見ました。文字が目の前のスペースに浮かぶというのは気にすれば気になります。これを読んでしまったら気になると思います。呪いのようでどうもすみません。ただ、僕はジョージ・クルーニーが好きなので、彼のヴォイスを聞きたかったという猛烈な未練に襲われていたりもします。迷いどころだと思います。

それぐらいジョージ・クルーニーは素晴らしかった。サンドラ・ブロックも素晴らしかったと思いますが、僕はジョージ・クルーニーにぶっ飛ばされました。吹き替えにもかかわらずうまくぶっ飛ばされることができたから、吹き替えでよかった気になってきた。サンキュージョージ。あんなにかっこいいカウボーイは、あそこまでかっこいいキャラクターが生身の人間で保つとすればその役者はジョージ・クルーニーしかいないだろうと思いました。あの笑顔の破壊力と説得力!そして会話をすることの大切さを知っている男としてジョージ・クルーニーの右に出るものはいない感じです。高度に訓練された洗練さなのか高度に洗練された訓練度なのか、サンテグジュペリの小説の登場人物が実在しているじゃないかと衝撃でした。あの高潔さに耐えうる役者はちょっと思いつかない。本当に彼の声で映画を見たかった。その思いがどんどん膨らんできています。

それと、ちょっとぐらい字幕が浮いていようとすぐに受け入れられてすぐ気にならなくなるぐらいの画面の充実度はあると思います。当然、そのあたりは何かしらの工夫がちゃんとなされているでしょうし。

結局、字幕・吹き替えに関してはどっちもありだと思います。特別に好きな俳優がいないのであれば吹き替えで問題ないようです。日本語の声の人も良かったし、雰囲気を損ねるようなところはなかったです。

ふたたび総意になりますが、2Dか3Dかでは何か不都合がない限りは「3D」です。3D構成の優秀なスタッフがとても優秀でした。「ゼロ・グラビティ」は画面を作っているというよりスペースを作っている映画です。なぜ飛び出る必要がある?という疑問はここではないどこかへどうぞ。

町山智浩の指摘は僕も見ていて同じように感じましたが、同時に必要性も感じました。あれはあれでよかったと思います。

あとタイトルについてですが、僕は「ゼロ・グラビティ」というタイトルは結構わるくないんじゃないかと思っています。むしろいいと思っているぐらい。

理由は言葉のかっこよさがあること、MJを思い出させてくれることです。それと原題は(Gravity)ですが、それを替えてしまうでも余計なものを付け足すでもなく、正確に反転させるというやり方はそんなに嫌な気持ちがしませんでした。結局同じことを言っているからオーケーです。キャッチーで、客引きとのバランスを考えてもかなりうまくやったと言っていいと思います。たとえば「悪の法則」などは原題が(The Counselor)だということを考えたらもっと嫌な気持ちになります。「カウンセラー」そのままで行くのが難しいのは理解できますが。

 

それにしても、今年は日本映画がすごい!と思っていたら、最後の最後にこんなとんでもない映画を送り込んでくるとは・・・・。アメリカ映画、さすがです。まだまだ最先端は譲らないといったところでしょうか。 フロンティア・スピリット!

 

 

ニンテンドー3DS クリアブラック

ニンテンドー3DS クリアブラック

 

 

1Q84が齎したモヤモヤ

 

村上春樹の『1Q84』を読んだ。狙いのようなものがあるように思ったんだけど、なんとなくもやもやした。ちゃんと狙いを読み取れてるのか不安になるというのもあって、安心して本を置けなかった。そのせいで若干、不完全燃焼感が残った。小説にとって作者の狙いがどれぐらい大事なのかは読む人に依ると思うけど、自分はかなり大事だと思っているので、自分なりに忖度して読むことが多い。たとえば映画にとっても監督の意図・狙いというものはあったりするけど、僕の場合、小説よりはそういうのを大事にして見ない。そういう見方も楽しいと気づいてからはちゃんちゃんと確認をしながら見ることもあるけど、そういうのは僕の映画鑑賞ではメインではない。確認しながら見る割合はちょっとずつ増えてきていて今は半々ぐらいになってるけど、今がピークだと思う。ジャンルによってはそういうことをまったくしないで見る。いい感じかどうか、みたいに感覚で判断する。多分、いい感じにできるかどうかというところに監督も集中しているんだろうと思うからそれはそれでありなんじゃないかと思う。そういう感じで小説を読む読み方もあるんだと思う。

僕は小説を読むときには狙いを気にする。狙いの付け方に関してはけっこう反感をおぼえがちになる。イヤな汁が垂れているような狙いの付け方をする作家の本は読みたくない。とはいえ自分の目はあまり鋭くないので気にするにしても自ずと限界がある。すぐ思いつくのは、伊集院静五木寛之有吉佐和子ハインライン、サラマーゴぐらいのものだ。後二者は翻訳のせいかもしれないし、読んだことのある作家では反感をおぼえるよりも好きになる方が圧倒的に多い。

村上春樹は好きな作家だ。かなり好きな作家だ。長篇はだいたい読んだ。僕は『ねじまき鳥クロニクル』がベストだと思っている。短篇集も素敵だ。

そういうのが重なって『1Q84』は面白く読めたと思う。でも、そういうのが重ならないで、というのはイフだけど、もしそういうのが重ならないで読んでいたら、ひょっとすると村上春樹を断念していたかもしれないと思った。『1Q84』、上級者向けじゃなかったですか?

何の上級者かというと、文学もそうだし、「村上春樹」もそうだと思う。『1Q84』は村上春樹上級者にして文学上級者が楽しめる小説だと思った。

映画にしても小説にしても「よくわからなかった」ということが起こる。自分はその感想を抱くことを極度に恐れている。小説を読む時にはその小説のことを必死でわかろうとしてきた。必死でわかろうとできるような小説ばかりに狙いをつけて読んできた。だから自分にしては狙いに鋭敏になってきたんだと思う。『1Q84』を読みながら感じた不安はおそらく「よくわからなかった」から端を発しているし、読んだ作家に好きな作家が多いのも同根だと思う。名作と呼ばれるものを読んで「よくわからなかった」とは言いたくないという気持ちを強く持ってそれらを読んできたおかげで好きな作家が増えていったような気がする。しかし、好きな作家が好きなのは見栄だけのことかというとそうではなく、読んでいるとき、読んだあとにがっちり掴んだ感触があるからだ。ドストエフスキーにせよ、トーマス・マンにせよ、夏目漱石にせよ、彼らが投げたボールをがっちり掴んだ感触がその都度はっきりある。だから好きになる。「>僕にはわかる」という感覚が嬉しくて読んでいる部分は大いにある。そこでの不安はあまり経験したことがない。カフカにせよ、チェーホフにせよ、町田康にせよ「ほうほう」と言いながらキャッチにいたる過程を楽しんだりできる。我ながらかなり楽観的な小説の読み方をしていると思う。ただ名作扱いされている中でもつまらないと思う例外の作品もあって、サルトルの『嘔吐』はつまらないと思った。言い訳じゃないけどベケットの『ゴドーを待ちながら』はおもしろいんだけど。

「50年以上前のもので今も面白いと言われるものは大概面白い」というのが僕が大学生の頃に学んだことだ。大学で、名作は面白いにちがいないと仮定して読み始めたんだけど、これは完璧にトゥルーだった。つまらないと感じる例外もあるけど、それはそれでつよく心に残るもので、完全にシカトすることもできないし、どこかべつの段階で再会するような予感がある。名作やそれに類するものを読む場合、面白く思えないことは自分の方に足りないものがあるということを素直に受け入れやすいので、余計な批評精神抜きに楽しめるのが大きい。中級者がハマりやすい陥穽をあらかじめ免除されているのがありがたい。自分はまだまだ徳が足りず、現在の小説を読むと批評精神がむくむくする。無理にそれを抑えつけようとすると眠くなったりするし、かといって批評精神全開で臨むと重箱の端っこの方でぎゅうぎゅうになって息苦しくなる。結局どう転んでも楽しくならない。やっぱり面白いところ・魅力的なところを待ち受けて作品に臨むというのが一番楽しくなるコツなんだと思う。映画を見るときもそうだし、お笑いを見るときもそう。笑う準備ができていると大概笑える。そうは言っても気になるものは気になるから、気になる部分を増やしていこうとする人、専門家の人はすごいと思う。気になるところをもっと気にするようにしているプロの批評家というのには感心させられる。彼らは「まるっきり的はずれなことを言っているかもしれない」という恐怖にどう対処しているんだろう。その坑は深くて深くて暗くて狭いはずで、その深淵の目の前を行き来する精神の強さには脱ぐ帽子もない。お金をもらうのは大変だ。虎の子を見るだけではお金はもらえない。でも僕は、虎の子を見ることが一番大事なことだと思うし、それに比べたら、「虎の子を見たよ」と言うことは価値あることにも思えない。

一方、自分が恐れるのは「ああ、いい」ぐらいの感想の作品だ。なにか大事なものを見落としているんじゃないかという不安がある。三島由紀夫が今のところこの位置にいる。僕は太宰がいい。

 

----------------------

 

村上春樹の書くものは特殊な対応関係を持っている。たとえば『神の子どもたちはみな踊る』という短篇集にはその関係が顕著だったように思う。これは震災を背景に、別の場所にいる別の人達を別々に描いた短篇集だ。それぞれの短篇はつながっていないようでつながっている。背景にある震災を通してそれぞれの世界がつながっているということもできると思うけど、別のつながり方をしていると思う。どういうことかと言うと、単語レベルでのつながりというか、言葉を通じて、書かれてある世界ではない別の世界のことを想起させるようになっている。『蜂蜜パイ』の話を読み聞かせるところを読みながら「かえるくん」が片桐に話をしてもらいたがったことを考えたり、身体の中の石のことを考えているとなぜか箱の中身について思い浮かんだりする。読んでいない人には何のことかわからないだろうけど、そういう対応関係がある。この響き方というのは説明しにくい。でも、説明のしにくさと存在感の大小には相関なんてない。とくに小説なんかでは。イメージは読者の中でつながる。だから面白いっていうのが村上春樹の書くものには大きくあると僕は思っている。文学といってもいいかもしれない。

1Q84』はまさにそういうイメージの共演を大きなテーマにしていると僕は見た。あのゴムの木と、このゴムの木が、別のゴムの木であるということは事実として、このゴムの木があのゴムの木を思い出させるということも事実だということ。それってつながっているってことじゃないか。後者の事実が極大点に達するのが渦巻きの中心で、そこに向かうまでの道のりが『1Q84』では描かれている。ナンノコッチャですかね?

ある登場人物がある登場人物に似ているとするのは失礼な話だと思う。個人の個性をざっくり縁取っているから。方向性としては自分というものを「O型一般」として扱われるような感じがある。そこまで極端じゃないにしても。ただ人物造形というのはどこまで行ってもそういうもので、作者はそのことに意識的に取り組み、意識的に接近している。渦巻きの中心がどこにどうつながっているのかわからないから、持っていけるものは全部持っていかないといけない。超自然も記憶も空白(スペース)も祈りの言葉も何もかも。でも他人は置き去りにしないといけない。なぜなら持ち運んだりできないから。こういうのは全然甘くないと思う。代わりに空白(スペース)を持っていく。天吾の小説原稿が「何もかも」なんだよね。

それこそ不安のもとで、不完全燃焼感のもとで、もやもやのもとだと思う。知らされないってのが大事なことだとしても、やっぱり知りたいわけで。

あと、読んでいる最中にずっと付きまとっていたもやもやがある。「1Q84年」というのはどうやって読むんだろう、ということ。 一応、自分のなかに3つ候補があったんだけど最後までどれか1つに決められなかった。

 

 

1Q84 BOOK3〈10月‐12月〉後編 (新潮文庫)

1Q84 BOOK3〈10月‐12月〉後編 (新潮文庫)