う飄々(仮)

いうてまじめやで。

思考停止と言われても

 

二つの価値観を同時に持つというのは不可能なことなのか。

自分ではその訓練をしてきたつもり。訓練というか実験?

今までのところ全部失敗に終わっているわけだけれど。あぶはちとらず、どっちつかずの半端者に終始している。これからもそうだろうと思う。僕は二者択一を拒み続ける。

究極の選択、あなたはどっち?というような思考実験がある。濁流に飲まれそうになっている大事な人、それぞれ別のところにいて、助けられるのは片方だけ、あなたはどっちを助ける?みたいなやつだ。ビュリダンのロバじゃないけど、一歩も動けないままゲームオーバーになりそうな予感がある。まあそうは言ってもそんな極端な問いがおかしいのであって、実際にそんな場面に直面することはないから考えるに値しない、と考えることはできる。はじめから思考を放棄するのだ。

極端な二者択一を迫られるから思考放棄で対抗する、というのは結構適切な回答だと思う。問いに無理があるなら無理して答える必要はどこにもない。トロッコの線路を切り替えて一人を犠牲にして五人を救うか、それとも切り替えることはしないで流れに任せるか、という質問は馬鹿げていると思う。そんなこと現実で起こりえないし、そもそも与えられている情報が少なすぎる。

しかし現実にそういう選択の機会が現れることはある。思いもよらない形で、もっとミニマムな形で、あとから考えれば決定的だがそのときには決定的とは感じられないような形で。

本当に厄介なことに、そのときにはどちらかを選んでしまう。選んだ意識があろうがなかろうが、決定的な選択は済んでしまう。一歩も動かないでいるということはできない。というかその選択肢はまったく浮かばない。存在しないもののことを考えることはできない。あとになってから存在したはずのことを考えることはできる。そのときにはその選択肢はちゃんと存在するし、そのことについて考えることもできる。ただ決定的な瞬間は過ぎている。

だからあらかじめ価値観を選んでおくということはうまい手なのかもしれない。そうすれば細かな間違いは起きても大まかなところでは間違えない。ひとつの価値観を選びとって生活する利点はここにある。視野を狭めて遠くまで見通すイメージだ。大事なことほど迷わない。迷うことをウジウジ考えると捉える視点はここを基準にしたものだと思う。

一方、あれもこれもというタイプは価値観にも欲をだす。ひとつの立場で考えながらも逆の立場にも立ってみたいという望みを抱いてしまう。「隣の芝は青い」というのを真理だと考える。他人のものだからいいと思うのではないが、自分が今いる場所ではないどこかにすばらしい場所があるのではないかとつい妄想してしまう。移動することを重要視する。行くときにも行きっぱなしではなく戻ってこれるかどうかということをつねに念頭に置く。行って帰ること、行ったり来たりすることを無駄だとは思わない。

行ったり来たりすることは、当人の内面に立って考えることができないものにとっては無駄な意味のない移動としか思えない。ゴールを持っている人にとっては目的地にどれだけ近づいたかということが大事なのであって、行きつ戻りつではプラスマイナスゼロにしかならない。三歩進んで二歩下がるは許容できても、三歩進んで五歩下がるは残念に思えても、三歩進んで三歩下がるは認識できない。はじめから存在しないものとしてカウントもされない。動いていないと見なされる。正確には動いていないとも見なされない。何にも見なされない。だが実を言うと、他人に何にも見なされないこのスペースこそ当人には理想の場所だ。いろんなことを知ったり楽しい思いができてまた同じ場所に帰ってこれるとすれば最高以外の何物でもない。自分の家から隣の芝の青さを確認できるのが一番だ。ただしそんなことは不可能だ。

だから変化を成長と呼ぶことで気を晴らそうとするのが目的を持って生活することの意味だ。精神的に向上心のないものは馬鹿だ、というのをシニカルに見つめるのは本当の馬鹿だ。気晴らしにすぎないことを気晴らしにすぎないと言うものは馬鹿だ。思ったことを口にしないではいられないその態度のことを少しでもシニカルに見つめれば、変な笑いがこみ上げてくることだろうと思う。

あれもこれもという考え方はシニシズムにつながりやすいと思う。両方の立場に立って見ると片方に固執する人間が愚かに見えてしょうがない。欠点だらけのその立場にどうしてこだわるのかと思わないではいられない。

一方で懐疑的な人間ほど真っ直ぐ立つ人間のよさにも目が行ってそういうところに憧れる。自分もそうなりたいと思ったりする。でもそれができないことを知る。そのときが自分が決定的な選択を避けてきたつもりで引き返せないほどの選択をすでに済ませてきてしまったと気づくときだ。そして引き返したいと思ってその方法をウジウジ考える。

三歩進んだところから三歩戻るにはどうすればいいのか、その距離を正確に再現できるか、経過時間をごまかせそうか、そういうことを考えるのに時間を使う。

 

 

ノット・トゥ・レイト

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