う飄々(仮)

いうてまじめやで。

『ドライブ・マイ・カー』のフック

 

文藝春秋に掲載された村上春樹の短編小説を読んで思ったことを書き残しておく。最近、村上春樹について書きすぎているような気がしてすこし心配になるけど、これについては書かないわけにはいかない感がある。

『ドライブ・マイ・カー』という小説。俳優が主人公。ありそうでなかった村上春樹×演劇。あるのかもしれないけど。

村上春樹はとても上手な作家だと再確認させられた。文章が読みやすい。文意が明確で、意味・内容の取り方の点で引っかかるところがない。文体も平易なので読んでいて立ち止まらせられることがない。だからといってのっぺりしているというわけでもなく自然なリズムがあって読み進めやすい。何より大事なのがそう書くしかないと思わせるように書いているところ。リーダビリティを高めるということはともすれば迎合的ないやな匂いをさせることにもなりかねないが、村上春樹の場合はそうはならない。読みやすくするということを本気で望んでいるのが伝わってくる。サービス精神というものから十分な距離を保てているからこそ、こっちも余計な遠慮抜きにリラックスできる。物語や書かれた文章に集中するにはリラックスできるかどうかが重要なポイントになると思う。また、万人にとって読みやすいわけではないが、むしろ万人受けしないというのは大切なことだと思う。読者にちょっとしたブルジョワ感を持たせてくれるからだ。「人はどうかわからないけれど自分はおもしろい」と言えることは、それ自体が素敵なプレゼントになると思う。

文章が読みやすいというのは、それだけでは上手な作家の条件として必ずしも十分でない。先に意味・内容の取り方の点で引っかかるところがないと言ったが、意味・内容の点では引っかかるところはむしろ多い。これこそが村上春樹の特徴だと思う。

まずフックが多い。そしてフックの形状がうまく引っ掛けやすいように整えられている。個人的なサイズにフィットする針の大きさで、それが読者にうまく刺さる。

個人的なことでいうと、【黄色い車・俳優・北区赤羽・知は無知にまさる・失くした時のかなしみを想像して胸が痛む・ワーニャ伯父さん・盲点】、このあたりが自分にとってのフックになった。

小説を読むとき、人は無意識のうちに自分との共通点を探す。そして共通点を見つけると、それが小さいものでも、場合によっては小さいものほど「同じだ」という思いを持つ。列挙したなかではワーニャ伯父さんよりも北区赤羽のほうがつよく同じだという思いを得ることができる。ワーニャ伯父さんは演劇好きなら誰でも触れたことのあるであろうチェーホフの作品で、北区赤羽はつかこうへいの出身地で都内でもとくに演劇に力を入れている街だ。どちらも演劇にちなんでいるといえるが、それが見えにくいのはより小さな北区赤羽の方である。偶然に彩られた共通点には運命を感じることができる。

たとえ妄想であっても関係ない。「同じだ」と思えば興味を持つ。そして一度興味を持てば、続きにラブソングの歌詞のような内容が書かれてあったとしても「同じだ」と思うことになる。たとえば、失くした時のかなしみを想像して胸が痛むというのは評論や批評においてはただ一言「喪失感」で済まされるありがちな感情で、文学的新しさのようなものからはほど遠い。しかし、だからといってつまらないと切って捨てられるものではない。このとき、他ならぬ自分の内では批評言語的な喪失感とはまったく別のものになっている。自分自身の記憶の上にある何かと直接結びつく。そのための入り口がひとつひとつのフックであり、そのようなフックになりうるこまごました要素や単語をつぶさに、さり気なく置いていくことで村上春樹の小説は成り立っている。ホテルのアメニティのように、具体的な匂いを消し指紋を拭きとって自分だけのために用意されていると感じさせるように丁寧に配置されている。

それにしても、本当に自分のために書かれたと思わせる小説だった。自分はそういう受けとり方をしやすい傾向があって、今までも小説を読んでは自分のために書かれていると感じ続けてきたようなものだが、それにしても、『ドライブ・マイ・カー』は本当に自分のために書かれたと思わせる小説だった。これが今年書かれたというのは、いくらなんでもタイミングが良すぎると思った。

タイミングがあうというのも「同じだ」の感覚を強調する。自分は相当ラッキーだと思う。

 

 

愛をひっかけるための釘 (集英社文庫)

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