う飄々(仮)

いうてまじめやで。

映画「ゼロ・グラビティ」を見て宇宙へ行こうプロジェクト

 

映画「ゼロ・グラビティ」を見てきました。

この映画に関しては、見た人それぞれの感想とはべつに、統一された意見があると思います。すなわち「映画館で見るべし」。

映画館で映画を見ることのリッチ感が僕は好きなので、すべての映画をできれば映画館で見たいと思っているんですが、現実には難しいです。そのため映画館で見る映画とDVDや配信レンタルで見る映画との線引きを行なっています。たとえば、僕の場合は最近だと「かぐや姫の物語」と「新編まどか☆マギカ」の間で線を引いていたりします。このあたりだとどちらを映画館で見るかという判断は分かれるところだと思います。もちろん両方とも映画館で見るというのがより正解に近く、両方とも家で見るというのは正解じゃないと僕なんかは思いますが、あくまでも一意見という感じがします。

引き比べて「ゼロ・グラビティ」は、映画館で見るか、それとも見ないかという二者択一になると思います。3Dというのもこの映画においては重要な要素になっていますが、それにしても3Dテレビで代用が効くものではありません。関係者でもなんでもないですが映画館冥利に尽きる映画だと思います。正直なところ、映画館で映画を見るというのは、とくにドラマ系だとあまり蓋然性がないと思います。リッチ感・プレミアム感・ラグジュアリー感というのはそんな蓋然性を補ってあまりあるものだと個人的には思っていますがそうは思わないという人がいたとしてもびっくりはできません。一方、スペクタクル系は映画館で見たほうがその醍醐味がより味わえるというのは意見の普遍性が強まるように思います。僕自身もどうしても迷ったとき、決められないけど両方見られないというときには大きいスクリーンにより映えそうなのはどっちかということを最終判断材料にすることがあります。大体はその前に見るときの気分で決めますが。

この二分法でいうなら「ゼロ・グラビティ」は第一にスペクタクル系です。宇宙空間を描き出すことにかなりの力が注がれているからです。まず一大スペクタクルが展開されます。

そして第二にドラマ系です。宇宙空間のリアリティが伝える圧倒的な状況において、サンドラ・ブロックジョージ・クルーニーが扮する人物、ちっぽけで非力というよりは無力な存在がチラッと星が瞬くように輝くさまはサンテグジュペリの小説『人間の土地』を思い起こさせます。これは宇宙空間の描写がしっかり伝わるからこそのものです。十分に暗くなければ目視で確認できない小さな小さな光です。

ゼロ・グラビティ」はドラマがスペクタクルと密接に結びついています。ドラマを見ることができる映画に間違いないとは思いますが、それもスペクタクルあっての物種です。その意味で高級なドラマと言ってもいいかと思います。2200円は十分リーズナブルです。これより以上に宇宙空間を体験できる機会はまず無いでしょうし、もしできたとして無重力体験などでしょうが、もっともっと値が張ると思います。

それに本当の体験というのは、ちょっと意味合いが違ってくるように思います。劇中でサンドラ・ブロックは博士として宇宙に行っており、いわばゲストの立場で、観客に近い存在です。トラブルが起こる前の彼女が「宇宙って美しい。静かで、すばらしい」というその感想ははっきり言ってテレビで見てるのとまったく変わらないものだと思います。しっかりと安全と結び付けられた感想で、それはそれで否定するべくもないし、リアルじゃないなどと言うつもりもないのですが、無重力体験の延長線上でしかないようなどこか牧歌的な感想に聞こえます。

その後のシーンでジョージ・クルーニーが同じような台詞を言うときにはまったく同じようで全然違う感想に聞こえます。どことも結び付けられずに虚空の只中で見る景色こそ、テレビでは見られないものなんじゃないでしょうか。死に包まれているその目で見ないと宇宙の美しさは捉えられないんだと思います。ジョージ・クルーニーの目を通して宇宙を見るという体験こそがリアルな宇宙体験なんだと思います。僕は宇宙に行きたいという意見を聞くたびに、内心で無邪気なもんだよと思っていました。僕は死にたくないからです。でも宇宙に行きたいという気持ちはわからなくもない。ようするにスペクタクルを見たいということなんだと思います。テレビで見る以上のものを見たいという気持ちはたしかにあります。でもそれを見るときは死ぬとき、もしくは死にそうな目に遭うときです。でもそれはちょっと・・・・。

そこで「ゼロ・グラビティ」です。悪いことは言わない。映画館で見たらいいです。

 

ここまでのは鑑賞者の総意で、ここからは個人の感想になります。

 

字幕と吹き替えがありますが、これは悩みどころだと思います。僕は普段は絶対字幕で見る派なのですがこれは吹き替えで見ました。文字が目の前のスペースに浮かぶというのは気にすれば気になります。これを読んでしまったら気になると思います。呪いのようでどうもすみません。ただ、僕はジョージ・クルーニーが好きなので、彼のヴォイスを聞きたかったという猛烈な未練に襲われていたりもします。迷いどころだと思います。

それぐらいジョージ・クルーニーは素晴らしかった。サンドラ・ブロックも素晴らしかったと思いますが、僕はジョージ・クルーニーにぶっ飛ばされました。吹き替えにもかかわらずうまくぶっ飛ばされることができたから、吹き替えでよかった気になってきた。サンキュージョージ。あんなにかっこいいカウボーイは、あそこまでかっこいいキャラクターが生身の人間で保つとすればその役者はジョージ・クルーニーしかいないだろうと思いました。あの笑顔の破壊力と説得力!そして会話をすることの大切さを知っている男としてジョージ・クルーニーの右に出るものはいない感じです。高度に訓練された洗練さなのか高度に洗練された訓練度なのか、サンテグジュペリの小説の登場人物が実在しているじゃないかと衝撃でした。あの高潔さに耐えうる役者はちょっと思いつかない。本当に彼の声で映画を見たかった。その思いがどんどん膨らんできています。

それと、ちょっとぐらい字幕が浮いていようとすぐに受け入れられてすぐ気にならなくなるぐらいの画面の充実度はあると思います。当然、そのあたりは何かしらの工夫がちゃんとなされているでしょうし。

結局、字幕・吹き替えに関してはどっちもありだと思います。特別に好きな俳優がいないのであれば吹き替えで問題ないようです。日本語の声の人も良かったし、雰囲気を損ねるようなところはなかったです。

ふたたび総意になりますが、2Dか3Dかでは何か不都合がない限りは「3D」です。3D構成の優秀なスタッフがとても優秀でした。「ゼロ・グラビティ」は画面を作っているというよりスペースを作っている映画です。なぜ飛び出る必要がある?という疑問はここではないどこかへどうぞ。

町山智浩の指摘は僕も見ていて同じように感じましたが、同時に必要性も感じました。あれはあれでよかったと思います。

あとタイトルについてですが、僕は「ゼロ・グラビティ」というタイトルは結構わるくないんじゃないかと思っています。むしろいいと思っているぐらい。

理由は言葉のかっこよさがあること、MJを思い出させてくれることです。それと原題は(Gravity)ですが、それを替えてしまうでも余計なものを付け足すでもなく、正確に反転させるというやり方はそんなに嫌な気持ちがしませんでした。結局同じことを言っているからオーケーです。キャッチーで、客引きとのバランスを考えてもかなりうまくやったと言っていいと思います。たとえば「悪の法則」などは原題が(The Counselor)だということを考えたらもっと嫌な気持ちになります。「カウンセラー」そのままで行くのが難しいのは理解できますが。

 

それにしても、今年は日本映画がすごい!と思っていたら、最後の最後にこんなとんでもない映画を送り込んでくるとは・・・・。アメリカ映画、さすがです。まだまだ最先端は譲らないといったところでしょうか。 フロンティア・スピリット!

 

 

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