う飄々(仮)

いうてまじめやで。

1Q84が齎したモヤモヤ

 

村上春樹の『1Q84』を読んだ。狙いのようなものがあるように思ったんだけど、なんとなくもやもやした。ちゃんと狙いを読み取れてるのか不安になるというのもあって、安心して本を置けなかった。そのせいで若干、不完全燃焼感が残った。小説にとって作者の狙いがどれぐらい大事なのかは読む人に依ると思うけど、自分はかなり大事だと思っているので、自分なりに忖度して読むことが多い。たとえば映画にとっても監督の意図・狙いというものはあったりするけど、僕の場合、小説よりはそういうのを大事にして見ない。そういう見方も楽しいと気づいてからはちゃんちゃんと確認をしながら見ることもあるけど、そういうのは僕の映画鑑賞ではメインではない。確認しながら見る割合はちょっとずつ増えてきていて今は半々ぐらいになってるけど、今がピークだと思う。ジャンルによってはそういうことをまったくしないで見る。いい感じかどうか、みたいに感覚で判断する。多分、いい感じにできるかどうかというところに監督も集中しているんだろうと思うからそれはそれでありなんじゃないかと思う。そういう感じで小説を読む読み方もあるんだと思う。

僕は小説を読むときには狙いを気にする。狙いの付け方に関してはけっこう反感をおぼえがちになる。イヤな汁が垂れているような狙いの付け方をする作家の本は読みたくない。とはいえ自分の目はあまり鋭くないので気にするにしても自ずと限界がある。すぐ思いつくのは、伊集院静五木寛之有吉佐和子ハインライン、サラマーゴぐらいのものだ。後二者は翻訳のせいかもしれないし、読んだことのある作家では反感をおぼえるよりも好きになる方が圧倒的に多い。

村上春樹は好きな作家だ。かなり好きな作家だ。長篇はだいたい読んだ。僕は『ねじまき鳥クロニクル』がベストだと思っている。短篇集も素敵だ。

そういうのが重なって『1Q84』は面白く読めたと思う。でも、そういうのが重ならないで、というのはイフだけど、もしそういうのが重ならないで読んでいたら、ひょっとすると村上春樹を断念していたかもしれないと思った。『1Q84』、上級者向けじゃなかったですか?

何の上級者かというと、文学もそうだし、「村上春樹」もそうだと思う。『1Q84』は村上春樹上級者にして文学上級者が楽しめる小説だと思った。

映画にしても小説にしても「よくわからなかった」ということが起こる。自分はその感想を抱くことを極度に恐れている。小説を読む時にはその小説のことを必死でわかろうとしてきた。必死でわかろうとできるような小説ばかりに狙いをつけて読んできた。だから自分にしては狙いに鋭敏になってきたんだと思う。『1Q84』を読みながら感じた不安はおそらく「よくわからなかった」から端を発しているし、読んだ作家に好きな作家が多いのも同根だと思う。名作と呼ばれるものを読んで「よくわからなかった」とは言いたくないという気持ちを強く持ってそれらを読んできたおかげで好きな作家が増えていったような気がする。しかし、好きな作家が好きなのは見栄だけのことかというとそうではなく、読んでいるとき、読んだあとにがっちり掴んだ感触があるからだ。ドストエフスキーにせよ、トーマス・マンにせよ、夏目漱石にせよ、彼らが投げたボールをがっちり掴んだ感触がその都度はっきりある。だから好きになる。「>僕にはわかる」という感覚が嬉しくて読んでいる部分は大いにある。そこでの不安はあまり経験したことがない。カフカにせよ、チェーホフにせよ、町田康にせよ「ほうほう」と言いながらキャッチにいたる過程を楽しんだりできる。我ながらかなり楽観的な小説の読み方をしていると思う。ただ名作扱いされている中でもつまらないと思う例外の作品もあって、サルトルの『嘔吐』はつまらないと思った。言い訳じゃないけどベケットの『ゴドーを待ちながら』はおもしろいんだけど。

「50年以上前のもので今も面白いと言われるものは大概面白い」というのが僕が大学生の頃に学んだことだ。大学で、名作は面白いにちがいないと仮定して読み始めたんだけど、これは完璧にトゥルーだった。つまらないと感じる例外もあるけど、それはそれでつよく心に残るもので、完全にシカトすることもできないし、どこかべつの段階で再会するような予感がある。名作やそれに類するものを読む場合、面白く思えないことは自分の方に足りないものがあるということを素直に受け入れやすいので、余計な批評精神抜きに楽しめるのが大きい。中級者がハマりやすい陥穽をあらかじめ免除されているのがありがたい。自分はまだまだ徳が足りず、現在の小説を読むと批評精神がむくむくする。無理にそれを抑えつけようとすると眠くなったりするし、かといって批評精神全開で臨むと重箱の端っこの方でぎゅうぎゅうになって息苦しくなる。結局どう転んでも楽しくならない。やっぱり面白いところ・魅力的なところを待ち受けて作品に臨むというのが一番楽しくなるコツなんだと思う。映画を見るときもそうだし、お笑いを見るときもそう。笑う準備ができていると大概笑える。そうは言っても気になるものは気になるから、気になる部分を増やしていこうとする人、専門家の人はすごいと思う。気になるところをもっと気にするようにしているプロの批評家というのには感心させられる。彼らは「まるっきり的はずれなことを言っているかもしれない」という恐怖にどう対処しているんだろう。その坑は深くて深くて暗くて狭いはずで、その深淵の目の前を行き来する精神の強さには脱ぐ帽子もない。お金をもらうのは大変だ。虎の子を見るだけではお金はもらえない。でも僕は、虎の子を見ることが一番大事なことだと思うし、それに比べたら、「虎の子を見たよ」と言うことは価値あることにも思えない。

一方、自分が恐れるのは「ああ、いい」ぐらいの感想の作品だ。なにか大事なものを見落としているんじゃないかという不安がある。三島由紀夫が今のところこの位置にいる。僕は太宰がいい。

 

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村上春樹の書くものは特殊な対応関係を持っている。たとえば『神の子どもたちはみな踊る』という短篇集にはその関係が顕著だったように思う。これは震災を背景に、別の場所にいる別の人達を別々に描いた短篇集だ。それぞれの短篇はつながっていないようでつながっている。背景にある震災を通してそれぞれの世界がつながっているということもできると思うけど、別のつながり方をしていると思う。どういうことかと言うと、単語レベルでのつながりというか、言葉を通じて、書かれてある世界ではない別の世界のことを想起させるようになっている。『蜂蜜パイ』の話を読み聞かせるところを読みながら「かえるくん」が片桐に話をしてもらいたがったことを考えたり、身体の中の石のことを考えているとなぜか箱の中身について思い浮かんだりする。読んでいない人には何のことかわからないだろうけど、そういう対応関係がある。この響き方というのは説明しにくい。でも、説明のしにくさと存在感の大小には相関なんてない。とくに小説なんかでは。イメージは読者の中でつながる。だから面白いっていうのが村上春樹の書くものには大きくあると僕は思っている。文学といってもいいかもしれない。

1Q84』はまさにそういうイメージの共演を大きなテーマにしていると僕は見た。あのゴムの木と、このゴムの木が、別のゴムの木であるということは事実として、このゴムの木があのゴムの木を思い出させるということも事実だということ。それってつながっているってことじゃないか。後者の事実が極大点に達するのが渦巻きの中心で、そこに向かうまでの道のりが『1Q84』では描かれている。ナンノコッチャですかね?

ある登場人物がある登場人物に似ているとするのは失礼な話だと思う。個人の個性をざっくり縁取っているから。方向性としては自分というものを「O型一般」として扱われるような感じがある。そこまで極端じゃないにしても。ただ人物造形というのはどこまで行ってもそういうもので、作者はそのことに意識的に取り組み、意識的に接近している。渦巻きの中心がどこにどうつながっているのかわからないから、持っていけるものは全部持っていかないといけない。超自然も記憶も空白(スペース)も祈りの言葉も何もかも。でも他人は置き去りにしないといけない。なぜなら持ち運んだりできないから。こういうのは全然甘くないと思う。代わりに空白(スペース)を持っていく。天吾の小説原稿が「何もかも」なんだよね。

それこそ不安のもとで、不完全燃焼感のもとで、もやもやのもとだと思う。知らされないってのが大事なことだとしても、やっぱり知りたいわけで。

あと、読んでいる最中にずっと付きまとっていたもやもやがある。「1Q84年」というのはどうやって読むんだろう、ということ。 一応、自分のなかに3つ候補があったんだけど最後までどれか1つに決められなかった。

 

 

1Q84 BOOK3〈10月‐12月〉後編 (新潮文庫)

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