う飄々(仮)

いうてまじめやで。

余計なお世話と親切のちがい

 

似ているようでちがうものはこの世にたくさんある。

たんにちがいを見るなら、全部ちがう(=全部ちがうという点で全部いっしょ byガガ様)というだけのことだが、一見、同じように見えるというところからふたたび「ちがい」を見出すというのは「ちがい」がはっきり意識されることだ。似ているものにこそ違和感がつよく感じられる。違和感というのは、同じであるはずのものが実はそうじゃないというところに生じるからだ。同族嫌悪というが、本当に同族ならば嫌悪されないんじゃないかと思っている。同族のようでいて実際にはちがうから、込めていた期待がまるまま厭悪に変わるということが起こっているような気がする。

人びとに嫌われるもののひとつに「余計なお世話」がある。あまのじゃくの僕も余計なお世話と感じられるものは嫌いだ。何を余計なお世話と感じるかというところではまだあまのじゃくの性質を活かせるのだが、余計なお世話というものがうるさいだけで益にならないどころか、積極的に鬱陶しいものであるという点ではそれもうまくいかない。

なぜ余計なお世話が嫌いなのかといえば、親切が好きだからだ。

たとえば、電車に乗っていて目の前の老人らしき人物に席を譲るべきかというシーンを思い浮かべると、このふたつのちがいがはっきり意識されるのではないだろうか。

「ひょっとするとここで席を譲るのは余計なお世話というものではないだろうか」

こういう疑問を抱いたことがない人は幸せだ。ネイキッド・キングの資質がある。

親切心を発揮しないことによるそれより、余計なお世話と思われることのリスクを回避する人は残念な人である。とはいえ残念な人を批難する気にはなれない。死なないように気をつけて生きてやがて死んでいく人たちを批難できるのは不死身かキングだけだ。

話がすこし大それた。

余計なお世話と親切とのちがいは身近なところにもある。席を譲るというだけのことでも、スマートにできる人もいればヘッタクソな人もいる。しかしスマートなほど親切でヘッタクソなほど余計なお世話かと言われればそうではない。趣味としてスマートを好むあまのじゃく人間にとってさえそれはちがう。両者の差ははっきりしているけれど、その差は見かけのテクニックとはまたちがったものだと思う。そして、それを決めるのは席を譲る本人ではなく、譲られる側の人や周囲の人、ようするに受けとり手だ。

超アンフェアだ。席を譲る人はかわいそう。譲られる側に「余計なお世話だ」という顔でもされたらたちまちのうちに死んでしまうぐらい譲る側は立場が弱い。もはや立ち上がってすぐ別の人に席を譲られていいレベルである。もしそんなトラウマを被った人間が「残念な人」化したとして、あなたは彼に石を投げられるだろうか。「おお、勇者よ。死んでしまうとはなさけない」とでも言うのか。

余計なお世話だと思いそうになったとき、勇者のみすぼらしい装備に目をとめて、その勇気を買うぐらいの度量は持っていたい。

僕自身のメンタルの仕組みでは、そういう広い度量の人間に対して親切を発揮したいと思うようにしているので親切するにも人を選んでいる。選ぶのは知っている人に対してで、ひどいと思う人には何にもしないしそれで何にも気にならない。知らない人はみんな寛大な人にちがいないと思って選択コストを減らす。面倒だから裏を読む気はない。他人に関してはキングか勇者かという区別もつけない。すごい人、残念な人ぐらいのざっくりした評価だ。「残念な人=ひどい人」ではない。「すごい人≠ひどい人」でもない。相関はあるような気はしているけど、ひどい人には一秒でも惜しいのであまり考えない。弾の避け方などは考えるかもしれない。残念な人も考えない。石を投げるのももったいないというのが正直なところ。

また話がずれた。とりあえず補足しておきたいのは僕の知り合いに残念な人はいない。言わずもがなのことだけど、交流がある相手のことを残念な人呼ばわりすることは嘘でもできない。僕だって自分のことを残念だと思いたくないし、自分の過去のことも残念に思いたくない。成長したと思うために自分の過去を暗黒視する必要はラッキーにも僕にはない。なかったことにしたい事柄は20個ほどあるけど。まあそれはそれとして。

 

ようやく本題に入る。

僕がここで言おうと思っていたのは「文章の親切度」だ。

読みやすさ・リーダビリティについて、書き手が意図することと読み手が感じ取ることとの差異について。

読者が読みやすいようにと書かれた文章にも二種類ある。余計なお世話と親切だ。親切じゃない文章のほうがかえってしばしば読みやすいと思うのは、あまのじゃくだからというよりは余計なお世話にイラつかさせられて文意に集中できないからというのが大きい。当然親切な文章のほうが不親切なそれよりも読みやすいし、読んでいて楽しめる。

僕はジャンルとしてのライトノベルが嫌いだ。あの特有のサービス精神が鼻持ちならない。媚びてやってる感に不完全さを感じる。媚びてる感自体そんなに好きじゃないけど、透徹した媚びというのはそれはそれで感心させられる。ミサトさんの「サービスサービスぅ♪」を知らないおばさんがやっていたらムカついてしょうがないだろうけど、それに似た感じがライトノベルというジャンルにはある。「こうすりゃ喜ぶんだろ?」みたいなのが見えると寒気がする。ミサトさんのは完全な当てこすりだからセーフだけど、それでもやっぱり少しムカつくし、積極的におもしろいとは思えない。

「コピーのコピーのコピーのコピー」と言う皮肉があったけど、本当にちゃんとコピーできてるなら「コピー」だけで済むはずだ。そういう皮肉で表されるものは、似て非なるもので本当の同族ではない。オリジナルに対する愛着が、似ているけどちがうもの(失敗したコピー)へのイラつきに換わる。

難しいのは、僕にとって余計なお世話でもより寛大な人にとってはありがたい親切になるかもしれないということだ。というかそういうふうになっているからそれが存在するんだろう。誰も望まないものは存在しない。

余計なお世話のようになるのをおそれて、読みやすさへの関心を放棄した文章は潔くて好きだ。中身は読まないけど、いいぞもっとやれという気持ちにさせられる。読まないけど。

読みやすい文章が「読者のため」というのは嘘だよね。でも読みやすいというときのやすさは読者にとってでしかありえないから本当でもある。

さっきからなんとなく苛ついているのはどうしてだろう。たぶんキングが多い気がするんだな。超アンフェアじゃないですか。文章を書くというのは。席を譲るということ以上にシビアだし、どう書いても絶対にまずい顔するやつがいる。かわいそうなことなわけ。文章を読みやすく書くというのは。でも見渡したら不死身のキングばっかりに見えてやれんよ。やれません。

みんなスマートだよなあ、ぼかぁ、ぼかぁ・・・・。

 

できれば読みやすくしたいけど、絶対に読みやすくなんかしたくない。というかできない。いやできるけど。できるけどしたくない。残念じゃない。

 

このブログは未来の自分が読むためにと思って書いているんだけど、今のところ投稿したものは二度と読み返したくない。暗黒。

 

マジで読みやすかったらいいのにな

と、神にも祈る思いです。

 

つーかリーダビリティは読み手が高めろ。そっちでなんとかすりゃいいんじゃん。

 

面白がれ。

 

よろしくおねがいします。