う飄々(仮)

いうてまじめやで。

魔の山を読み終えたのです

 

長ーい読書が終わった。昨日の深夜12時過ぎぐらいのことだ。正確には2013年11月13日の午前0時半頃のことだ。

僕には好きな本がたくさんある。そしてあえて分類するとそこには好きな本と大好きな本がある。たとえば、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』は好きな本で、同作家の『トニオ・クレーゲル』は大好きな本だ。この二冊は自分の中でははっきりと分かれる。好きな本はたくさんあって、大好きな本はあんまり多くない。

大好きだから人に勧めたいかといえば、そうではない、というタイプの人やそういう種類のものもあるのかもしれない。だけど自分の場合、大好きなものは基本的には人にも勧めたい。『ヴェニスに死す』か『トニオ・クレーゲル』、どっちを読もうかと迷っている人がもしいれば、すすすと寄っていって黙って『トニオ・クレーゲル』を指さすぐらいのことは実際、しかねない。

読み終えたばかりの『魔の山』もすでに勧めたくてたまらない。というより、読みながら、ほとんど第一章の段階で人に勧めて回りたいという衝動に駆られたほど、『魔の山』は大好きな本だった。読み始めは9月の終わり頃だったから、およそ2ヶ月かかって読み終えたことになる。その間、べつの本も何冊か読んでいたとはいえ、そうとうな遅読だ。もともとかなりの遅読なのに、最近は集中力が続かなくなってきているから困ったものだ。まるでジジイだ・・・・。

 

「勧める」といえば、僕は夏目漱石が大好きで、誰かれ構わず「漱石いいっすよ」なんて言って喧伝している。その際、「文学」という堅苦しい雰囲気は極力避けて、彼のPOPな語り口に焦点を当てて攻めていくのを定石にしている。

「さっきから松原を通っているんだが、」から始まる『坑夫』なんて、その方針で勧めさせてくれるために書かれたのかと思うほどPOPでオシャレな小説だと思う。ちなみに『坑夫』は「小説書き出しランキング*1」の第一位に今現在輝いている。2009年秋冬シーズンから4年、いまだに首位を守り続けている快作だ。まだ読んでない人はぜひ読んでみて、漱石の新しいイメージが発見できるはず☆

 

ところで、僕は大学に入ってから今読んでいるようないわゆる「文学」を読み始めた。それもちょうど今ぐらいの秋冬シーズンから。

高校の頃までは歴史小説を中心に読んでいて、たまに本屋さんで平積みになっているベストセラーに手を出すといった読書生活を送っていた。

なので僕が「文学」に触れ始めたのは7年前ということになる。初めの一冊が『星の王子さま』だったことが決定的だったんだろうと振り返って思う。『星の王子さま』にドン嵌り*2した当時の僕は、星の王子さまの関連書というか解説本を速攻で読んで、そこに参考図書として挙げられていた三冊の『幸福論』に目をつけた。

そしてたまたまブックオフで文庫を手に入れることができたのがヘッセの『幸福論』で、「なにこのジジイめちゃくちゃ面白いんですけど」となり、ほとんど一冬で和訳されているヘッセの本をあらかた読んでしまった。高橋健二訳。

あとはあれを読んだりこれを読んだり、とにかく「有名である」ということだけを条件に適当に文庫を手にとってはその作家のものを制覇していった。そのころは超有名ドコロだけを読んでいたこともあり、好きにならない作家はただの一人もおらず、古典というか名のある作家の書く小説というのはすごいものだと感心して感心して、感心しまくっていた。それで「王道がいいんだ」と自然に刷り込まれていったのだった・・・・。

当時、「サブカル」というものがわからず、「俺が知ってるんだからサブカルじゃないだろ(メインカルだろ)」と思い込んでいたりして、われながら随分お気楽な文化受容を経たと思う。映画とかも大好きだけど「サブカルクソ野郎」と呼ばれる恐怖や自分の感受性に関する疑問は今もあまり持っていないっていうのは「名作文学」に感謝してもいいのかもしれないですね。

 

ただしまったく問題がないわけじゃなくて、「自分が読んでいる(知っている)ものはみんな読んでいる(知っている)に決まっている病」が発症して、それでずいぶん苦労した。というか今もだ。僕が触れているものはよくもわるくも「ニッチ」じゃないので、「みなさん周知のため話は早い」ようでいて、その実、「名前は知っているのですが・・・、」というパターンが多くて困るのだ。いつもおどろいちゃうのだ。困惑するのだ。はっきり言って周章狼狽するのだ。

「あ、そうなんやー いやめっちゃおもろいでー」

僕のPOP戦術はこういう闇から生まれた。超名作だからといって何も「お高い」わけじゃなく、ふつうに親しみやすいよ、と。

そういう「POP押し」は傲慢に映るらしいことはなんとなく感じていた。でもそこは「面白い」を信じて、開き直ってやった。

当然うまくいかなかった。それでも押して押して、押しまくった。・・・・ってとこまでバカになりきれず、中途半端に「いいよー」と一声、ことあるごとに繰り返すに終始した。

読書生活と実生活のあいだをなんとか橋渡ししたいと思いながら、でも一回もうまくいかないまま、読書生活は7年になった。

 

7年の読書生活でわかってきたことに「本と出会うタイミング」は重要だということがある。これは読み広げていくタイプの人にはわかってもらえると思うけど、「いま、この本を読めてよかった」という感覚はどの本にもはっきりとある。人との出会いにもそういうタイミングの機微はつよくあると思うけれど、それと同じぐらいかそれ以上に、「本との出会いのタイミング」の機微はシャッキリポン*3とあるのだ。しかも心に響いた本ほど「〈いま〉でよかった」という思いはつよくなる。

そうするとどうなるか。

本を勧めるのがどんどん難しくなってくるのだ。大好きになった本は大好きの度合いが大きいほど「いま」この本を読めてよかったという思いもつよくなる。7年の読書生活を経ての「いま」ということは、大学時代に読書をしてこなかった人にすぐ勧められるものではないということにもなるではないか。もともと読書してきた人には勧められるのかもしれないけど、ジーザス!そういう人が周りに全然いない。

 

いろいろ書いてきたけど、よく考えたらべつに本を勧めたいわけじゃなかった。ぼくは読んだ本について語り合いたかったのだった。「自分が読んでいるものはみんな読んでいるに決まっている病」というのは端的に言うと「なんで読んでいないんだろう」という他人へのフラストレーションだった。お互い知っているものについてその面白さを語ることはできても、「読んだ本にこうこう、こういうところがあってそこがすごく面白いんだよね」というような、簡単に要約を交えた話し方がぼくにはできないから、フラストレーションはよけい大きくなったというわけだ。

いやあ、愚痴っぽくなってしまってよくない。こんなこと書いている暇があったら、そんなに大好きな『魔の山』の面白かったところを読んでない人に少しでもわかりやすいように一箇所でも二箇所でも説明してみろというのだ。それもしないで「周りが『魔の山』を読んでいないのがわるいー」などと泣き言をいうな見苦しい。

・・・・ぐぬぬ。たしかにこれは半分はその通りなのだ。建設的な意見を述べよという批判はいつだって正しい。だが、『魔の山』の面白かった・素晴らしかったところを説明するために「かくかくしかじか」と言うわけにはいかないではないか!

「セテムブリーニの造形的な言葉とどんなときにもそれを自慢に思いながら話す明朗な声、その声が黙る瞬間、ナフタの挑発にも耐え忍んで沈黙を守るセテムブリーニの高貴な姿を見て、沈黙は金、金色だ!とブルブル震えたりした。」そういうのはその背景と一緒に話せるようなことではない。でも背景なしではわけがわからないでしょう?俺にはそれが「言えない」だけで、わけがわからないようなことじゃないんだ!断じて!

どうしてもうまく言えないで、「別れと再会、ふたたびの別れ」と、ほんの符牒のように言って、「よくあるテーマだね」などと返されたらその責任もまた負い切れない。やばくてこわくておそろしい。

 

それでもハンス・カストルプという主人公についてだけは何か書けるんじゃないかと思うから書く。

ハンス・カストルプは平凡な青年だ。平々凡々、学生生活を終えて社会にでる前にほんの寄り道に従兄のヨーアヒムを訪ねるところが物語の始まり。従兄のヨーアヒムは軽い結核で、「ベルクホーフ」という高地のサナトリウムでその治療に専念していた。そのお見舞いを兼ねて、3週間見学の予定で立ち寄ったハンス・カストルプであったが、到着したその夜から軽い熱を出す。彼の滞在期間は当初の予定を大きく上回ることになり、ハンス・カストルプは高地のベルクホーフで、さまざまな意味でさまざまに天才的な何人かの人物たちと交流することになる。

 

僕はみんなと同じように平凡さについては多くのことを知っている。ただ、知っているんだけどわかってはいない。だから「平凡さについて知っているはずだと思っている」といったほうが正確かもしれない。内気な人が自分は内気さについて知っているはずだと思うのに似ている感じだ。そういう人が内気さについて本当にわからされるのは、自分自身の経験からというよりは内気な人物について書かれた物語からというほうが多いのではないだろうか。まったく同様に、ハンス・カストルプの平凡さは僕に平凡さというものをわからせてくれる。

 

高校生の頃、007のゲームをしていてふとイメージが浮かんだことがある。ボンドに瞬殺される雑魚キャラを主役にして映画が作れるんじゃないかというアイデアだ。

冒頭は普通の007の映画のように、いきなりボンドが「修羅場」にいて、窮地を華麗に脱するシーンを映す。そして、その過程でたまたまのようにそこにいて、いとも簡単に撃ち殺されるモブを映す。そこでいきなりストップモーション。撃たれたモブにフォーカスしていきながらゆっくり逆再生していき、次第に逆再生のスピードとフォーカスが高まり、一気に彼の幼少時代へ。その場に居合わせることになるに至るひとりのモブの人生を描く――。そんなイメージが一瞬のうちにそこそこ鮮明に閃いたのだった。

そのアイデアは高校のときの友人にも大学の映画サークルの友人にも話したことがあったが、二度とも気のない返事で、別にどうというリアクションもなかった。

その後、「マリオ」の動画がネットでちょっとした話題を集めたことがあった。その動画はマリオに簡単にやられる一匹のクリボーの人生にフォーカスした5分ほどの短い動画だった。CGなのか高い技術と完成度の映像で、ストーリーもうまくまとまっていた。「絶対ヒーロー」にかるく踏み殺される一生のなんとも言えないかなしい平凡さが高校の頃イメージした物語とのつながりを感じさせた。欲を言えば、そこで描かれたクリボーの一生がやや紋切り型の人生だったことはすこし残念だった。平凡ということは紋切り型ということではないと思ったからだ。紋切り型じゃなければ平凡じゃないとはいえないわけだから。「オンリーワン=非凡」かと言われればそうではなく、オンリーワンでも平凡は平凡だ。平凡の像はヒーローからの逆算で作られるというか、ヒーローを鋳造するための鋳型として「平凡さ」はまとまってあるものだ。

 

ハンス・カストルプはヒーローではない。ヒーローではないからこそ彼は『魔の山』の主人公なのだ。いや、彼がヒーローではなく平凡だから『魔の山』が書かれたのだ。「平凡な主人公」というのはいかにも語義矛盾しそうなイメージではあるが、そうはならない。よくある物語のように、とつぜん非凡さを身に付けるからでも、ドラえもんスヌーピーみたいな存在が現れるからでもない。たしかに『魔の山』ではそのような「つよい存在」は現れる。しかも一人ではなく何人も同時に現れる。ハンス・カストルプは平凡さをもって彼らに向かい合い、そのことが非凡な人間たちの非凡さと、ハンス・カストルプの平凡さを強調する。天性のものはつねに主人公の相手側にあるのだ。

それでも主人公はハンス・カストルプだし、『魔の山』の読者がもっとも愛するようになるのは、愛すべきヨーアヒムでもなければ、明朗なセテムブリーニでもその裏返しともいえるナフタでも、スケールの大きいペーペルコルンでもない。これは断言してもいいが、読者がもっとも深く愛するようになるのはハンス・カストルプその人だ。「彼が」愛する人、プリビスラウ・ヒッペやクラウディア・ショーシャがもっとも愛されることも、もしかすると考えられていいのかもしれないが、いずれにせよそれは読者があまりにも深くハンス・カストルプを愛し、彼と完全に同一化した結果としてあり得ることだ。

彼がなぜ主人公なのか、なぜ愛されるのか。それは彼が平凡だからだ。僕たちがそれぞれ変わった具体的なところを持っているように、ハンス・カストルプも変わった具体的なところを持っている。たとえば彼はエンジニアで、やさしい、誠実な人生の厄介息子だ。そういうところだけ見れば彼も平凡ではない。ただ全体としての彼は確実に平凡な人間だ。全体としての僕たちが確実に平凡であるように確実に。中途半端で決してイキきることができない発展途上の青年のひとりだ。

それでも主人公は「ハンス・カストルプ」なのだ。彼なしに『魔の山』はない。ハンス・カストルプを見ていると「平凡さ」というものの正体がわかる。それは愛すべきもの、本当に愛されるべきものなのだ。

 

 

魔の山〈上〉 (岩波文庫)

魔の山〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 

*1:当社調べ

*2:ドーンと嵌ること

*3:歯ごたえがあるさま、その様子。