う飄々(仮)

いうてまじめやで。

魔の山にのぼる道の途中で

 

このあいだトーマス・マンを見つけた。

『トニオ・クレエゲル』という岩波文庫の本を読んで、自分自身のテーマとの重なり方にたまげた。

あんまり驚いたものだから半年を残して「2013年の一冊」に決めてしまった。『ヴェニスに死す』も面白かったし、トーマス・マン短篇集を読んでから『魔の山』に登ろうと思う。もっと昔の人だというイメージがあったが、夏目漱石よりも7つ8つほど年少だということでそこもびっくりした。どうも経済学者のトーマス・マンと混同していた模様。

『トニオ・クレエゲル』は現代にとても親和性の高い本だと思う。一言でいえば芸術受容について。

 

生活か、それとも芸術かという二者択一は今の世にはそぐわない。

生活しないで芸術だけに打ちこむことは生きている以上できない。また、生活しながらでも芸術に触れることは全然不可能ではない。むしろ芸術にまったく触れないで生活を送ることのほうがむずかしい。どれだけ忙しい人でも花火が上がればそれを見る。

実際のところ、生活と芸術のどちらか片方だけを択ぶことはできない。僕たちは、生活と芸術二つながら持ち、暮らしている。

しかし、生活と芸術とは相反することもたしかで、これらはひとりひとりの内部で鋭く対立することになる。芸術は受容から始まるが、さいごまで受容の姿勢を取ることはむずかしい。芸術はそれを享受させるだけでなく、やがて自ら表現することをも促すようになるからだ。生活との対立の芽はここに萌す。

 

優れた生活者とは、何よりもまず、この芽を摘む能力に長けている者のことである。芸術を志すなどと言ってしまう者は総じて生活がうまくない。だがもっとひどいのは芽を摘まないでいてしかも芸術を志すと言ってしまえない者である。これは内に向いて渦を巻いているようなもので、行く手は先細る一方である。この状況にある者は誰も彼も例外なく「転換点」を待っている。マイナス分が一気にプラスになるような逆転のシナリオを胸の奥に秘めている。そんなものがあるのなら取り出して使えばいいはずなのだが、絶対にそれをしない。なぜなら秘めている状態ではそれが存在することは確実だが、いざそれを取り出すとなると、話が変わってくるからである。毒ガスを送り込んだ箱のなかの猫も、もしかしたら生きているかもしれないと、箱を開けるまでは信じることもできる。箱を開けるとゲームは終わってしまう。当人も「転換点」があると本気で信じているわけではない。ただゲームを終わらせることができないだけだ。

 

飽きて面白くなくなっても、これまでのプレイ時間のために簡単に投げ出すことができなくなった、という状況は単純につまらないし、そんなのはゲーマーの姿勢とは言えない。これこそが批判であって、ゲームなんて何が面白いのかというのは批判でもなんでもない。

それと同じで、ゲームをやめて真剣に生きろ、なんていうのは提案でもなんでもない。芽を出すゲームと生活ゲームを並行してプレイすると結構楽しいから一度やってみて、というのが提案である。クリア条件は花を咲かせること、生き延びること。結局枯れるし結局死ぬというようなことは逆転のシナリオといっしょに密閉された箱のなかにぶち込もう。

ところで、芽を摘むゲームは既プレイなのだが、あれは糞ゲーですらないのでおすすめしない。

 

 

トニオ・クレエゲル (岩波文庫)

トニオ・クレエゲル (岩波文庫)