う飄々(仮)

いうてまじめやで。

丁寧(ていねい)ということ

 

僕は字を書くのが苦手だった。どうしても上手い字を書けないで遺憾だった。

よく、「綺麗に書こうとしなくていいから丁寧に書きなさい」と言われた。でもそんなの嘘だと思った。女の子の好みを聞かれて、「性格いい子」と答える男の子のような論理だと思った。彼の言わんとするところは「(ルックスが良くて)性格いい子」。彼は自覚なき欲張りだ。それとおんなじ匂いがした。「心をこめて(綺麗に)書きなさい」。

上手な字を書くためには、技術的な訓練、それも質ではなく量に依るところの大きい訓練が必要だ。心機一転、うまい字を書くようになったというのは、そういう本を売りたい人間が作った物語にすぎない。心はすぐ入れ替えられる。量的蓄積は時間と労力を欠かせないが、質的転化は一瞬のうちに可能だ。ほとんどの場合、二秒後には元の木阿弥だとしても、一秒間は生まれ変われる。本は「生まれ変われた」という幻想を売っている。それはそれで素晴らしいことだが、いかんせん、字を書くのは一秒じゃ足りない。

丁寧に書きなさいというのは、そこから受ける印象とは裏腹に、お手軽簡単な即物的アドバイスにすぎない。そう考えると僕の手はますます震えた。

もっとテクニカルなアドバイスが欲しかった。そもそも、ひらがなでも漢字でもアルファベットでも全部アドバイスが同じというのは変な話だ。上手い字を書くためのコツのようなものがあるとして、ひらがなのコツと漢字のコツはちがうはずだと思っている。ひらがなは「ていねいに」、漢字は「丁寧に」、ってやかましいわ。

 

達人はさっとこなす。習字の達人はさらさらと、なんでもないことのように字を書き上げることもできる。僕はその様をみて、そのように書きたいと思う。何はともあれ、さらさらと書く。ひどい字になる。見よう見まねではうまくいかないこともある(うまくいく場合もある)。

達人というのは、むずかしいことをあたかもかんたんなことのようにこなしてみせる。そこに罠がある。彼奴らは涼しい顔をして悪辣なことこの上ない。かんたんなこともかんたんにこなすからだ。そうすると、見ているうちにそのちがいがわからなくなってくる。できるはずのことにまでつい疑いの目を向けてしまうようになって、やがてドツボにはまる。

 

緻密さを求めるあまり丁寧さを欠くということもあるのではないか、こだわらずにいることも大事なのではないか、と老荘思想じみた境地に達するともうダメである。ざっくばらんを心がけていいことなどひとつもない。実際にはあるにはあるのだろうが、そんなものは例外もしくは達人になってからのステップ(ゴールではない)であって、丁寧を心がけるというのは、基本的に緻密さを追うことであり、こだわるべきすべてのものにこだわろうとすることであるはずだ。

いまは脱力系がうまい抜け道になっていると思う。「味がある」という評価を僕は信用しないし、「丁寧な字」というものは存在しないと思っている。

「結局、できるやつは何でもできるし、できないやつは練習しないとできないってだけの話だろ」ということだ。でも練習は億劫で、すぐダレてやりたくなくなる。そのときに達人の境地を引用して、力を抜くことが大事なのだ、個性を目指すべきなのだと自己正当化をはかることはいとも容易い。最近はその引用元がたくさん出てきているような気がする。需要が増えれば供給が増えるのは当然のことだと聞いてはいるが、それにしても溢れている、満ち満ちている。達人はあまい言い訳を創出する。そしてわれわれは手もなくスポイルされる。素直な人ほど引っかかり、横になりながらそれを修行だと心得ている。なんという悪逆非道!

 

丁寧な字は綺麗でなければならないと思う。丁寧に書かれていると感じさせる字が本当に綺麗な字だと思う。その意味で、『珈琲時間』という漫画はとても丁寧に書かれている。綺麗な絵にさりげない演出、珈琲は美味しくなければならないというシンプルなこだわり。

豊かさというのは時間をかけること――、それをこれほど雄弁に物語る漫画もそうないのではないか。

 

僕は字を書くのが苦手だ。上手い字が書けないで遺憾だ。でも字の練習なんかに時間を使いたくはない。なにか一瞬で字が綺麗になる方法はないものかと思う。手で書かないでタイプすればいいというドラスティックな解決法も一応あるにはある。でも手書きの綺麗な字はやはり惜しい。うまい方法がないものかと考える。

それにはやはり丁寧に書くことだ。

もっとテクニカルな言い方をするなら、時間をかけて書くことだ。たっぷり時間を使ってゆっくり書くこと。自分が普段書くスピードの倍遅く、ゆっくり書けば、そうしないよりもいくらか綺麗な字が書けるのではないかと思う。スローでも自分のリズムは忘れずに。

 

「自分のリズム」とか言い出すと、結局、反復しないといけないわけで、いずれにせよ練習が欠かせないということです。ほんと億劫千万。