ヤバい、面接官がいっぱいだ。
ところで、僕は最近ぜんぜん本を読まない。
具体的にいうと、この夏(8月と9月)の間に読んだ本は3冊である。
・ヴェニスに死す
・色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年
・大停滞の時代を超えて
3冊とも1日、2日のうちに読みきったことを思えば、この夏、僕が本のページを開いたのは3日間ということになる。
60日のうちの3日というのは、とくに忙しくもない僕には、いくらなんでも少なすぎる。
しかし、これには理由がある。
僕は、お芝居に挑戦していたのだ。
「見ると演るとは大違い」そんなこと、実際に動くまでもなくとっくに知っていたんだけど、そこをあえて演ってみた。惰性にしたがって稽古場に足を運ぶうちにいろんなことが決まっていって、舞台に立つことになった。それでいっぱいいっぱいになって、おちおち本も読んでいられなかった、というのがこの夏の実情だ。
お芝居。挑戦。
結果から言えば、僕の初舞台は失敗に終った。
とはいえそんなこと初めから分かっていたことのひとつで、淡い期待を持つふりをしながら、ほんの少しの可能性に賭けるふりをしながら、それでもとにかく演ってみた。
僕は自分の失敗に敏感だから、そもそもの資質に欠けているんだけど、そんなものには目をつぶっていようと思った。ちょうど、それに目を瞑らないことには。という気持ちがあったから、いい機会だと思った。
期待も可能性も、それを持たないでいたら周囲に失礼だと思ったから、持っている様子でいようと思っただけで、本心では成功するはずないと思っていた。僕は、失敗に敏感だから資質がないというより、それもあるがそれ以上に、成功に不感症的だから資質がないんだと思う。成功しててもそれを感じられないという話だが、一応断っておくと、今回に関しては客観的にも成功していない。
客観的にも成功していない。だからなんだ?というマインドがある。
それは裏返せば、客観的にも成功している。だからなんだ?というマインドだ。
この言い方だと主観的にも成功しているということで、すなわち、だからなんだ?とはならないし、もはや最高でしかないと思うが、そんなのはフィクション、というより言葉の綾だ。
僕はおそらく主観的な成功を渇望している。主観的な成功。わけがわからない。
成功も失敗も客観的なものでしかあり得ない、らしい。役者というのは客観的な評価のなかに全身埋まっているような存在だ。データとか数字といった気休めもなく、個人の嗜好だけに左右される。無謀な存在だ。しかも頭だって良くないといけない。無茶だ。
でも、彼らは、個人の嗜好のなかにぴったり入り込むことができる。個人の嗜好そのものになることができる。その一瞬は客観的な成功でもあり、主観的な成功でもある。彼らから見て僕の目線は客観的なものだから、彼らを見て成功していると僕が思うのは、彼らにとっては客観的な成功にちがいなく、同時に、僕が成功していると思うのは、僕の主観での判断であり、このときの僕は、主観的な成功についてのわけのわからなさがなくなっていて、これが成功だと一心に思うことができる。
成功するには、他人を巻き込む必要がある。成功を感じるには、他人に巻き込まれる必要がある。
成功するというのは相手に成功を感じさせることにほかならないし、成功を感じるというのは相手に成功させることにほかならない。
「成功/失敗」が答えだとすると、その問いにあたるのは「作品作り」だ。これが面白かった。客としてお芝居を見に行っただけでは見られない面白さがあった。惰性にしたがって稽古場に足を運んでいたのだが、本番が近づくにつれ、小さくない斥力が働いても足が遠ざからなかったのには、これを見届けたいという好奇心があったからだ。もうひとつには、共演者の人たちの存在がある。彼ら舞台経験者はあまりにも心強かったし、いい加減な自分の地を出さないための枷にもなった。
お芝居から逃げ出さなかったことは、大きな失敗だった。
「失敗は成功のもと」ともいうが、今回のはあんまり大きくて、簡単には「もと」になれないと思う。
客が憎いだろうということは事前に思っていた通りで、想像以上でも想像以下でもなかった。想像したままだったと言うことができるようになったが、そう言ったところであまり意味は無い。こういう感じになるのも思ったとおりだった。
何が言いたいかというと、何であれ挑戦することはいいことだ、という意図で、僕はこの記事を書いているのではないということだ。挑戦するのはいいことだとか無邪気にいう人は、成功することがいいことだと無邪気に信じる人だと思う。失敗にも価値があるとか言ったところで、それはいつか成功につながるから、と付け足さずにはいられない人たちだ。
ちがう。失敗は失敗だ。当たり前だ。僕は逃げ出していれば、少なくともあんなに大きな失敗はせずに済んだ。でもそうしなかった。なぜか?よくわからない。
どうなるか知っていてもその通りにはならない。本当にはよくわからないからだ。それは淡い期待というほどキラキラもしていないが、それを可能性と名付けるほどふてぶてしくもなれないが、それでもよくわからないところはある。たぶんそれを源にわけのわからない感じがあふれる。
お芝居から逃げ出さなかったことは、大きな失敗だった。
そこに価値があったとまでは言えないが、とにかくそれは、今まで経験したことがないぐらいには大きかった。
- 作者: 山崎正和
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