う飄々(仮)

いうてまじめやで。

横道世之介を見た

 

待ちに待った映画「横道世之介」がiTunesストアで解禁されてるのを見つけて、とうとう観ることができた。

見ながら、「いよいよ時代のニューヒーロー誕生か」と思った。

ちょっと間抜けで憎めない横道世之介のキャラクターが関わった人たちを笑顔にさせる。そのキャラクターの根幹にあるのは「常識」だった。「意識」でも「知識」でも「良識」でもなく「常識」。当たり前のことを当たり前にして当たり前に生きると言うことのパワーに感動させられた。

将来の世之介にはヒロイックなところが見受けられるようでいて、それは単に彼が従っていた「常識」の延長でしかない。僕はひねくれているのか、この素晴らしい記憶の断片は「物語」に寄せたりして世之介の「結末」をつける必要がないはずなのに、それをしているところが気に入らない、断片的に忠実に掬い取れていてそれだけで十分に感動的であるのに玉に瑕とはこのことか、と結末をアナウンスされた時点でつい95点をつける気持ちでいたんだけど、よくよく考えれば、というかもっとよく仔細に玉を見つめていけばそんな必要はなかった。

「結末」に一番とらわれてるのは自分のそういう考え方だと思いなおすことができた。世之介の常識に照らして。結末はぜんぜん重要じゃないのだ。映画を最後まで見るうちに自然にそういう気持ちになれた。

僕にはすぐに強いことを言いたがるわるい癖がある。感じたままそれを言えばいい時にでも、感じたものの強さをだれかに証明しなければいけないという強迫観念みたいなものに押されて強い言葉にしなければと思ってしまうのだ。キラキラしているものをキラキラ表せなかったら意味ないと思っているのかもしれない。そのくせ強い言葉を言うために必要な「断言」はできないで、冗談に紛らわしたり、回りくどく言ってみたり、あまりにもあんまりな結果に終わることが多かった。それでいて悪びれたりはしなかった。そういう態度は少なくとも自分の感じたキラキラには誠実じゃないかと思っていた。だからといって、強いことなんかいう必要はない、なんにもいう必要はない、黙って感じていればいいんだと思ってやっているだけの根性もなく。そういうのは普通によくないよね。

 

忘れたくないなあと思う瞬間がある。キャッチ・ザ・モーメントとかいって、ずっと手に握りしめていたいと思う瞬間が。全部をそうしていたいのは山々だけど、そうもいかないだろうからせめてこの一瞬と、あれと、それだけでも。

横道世之介の職業はカメラマンだ。カメラは一瞬を切り取るものだと言われる。一瞬を切り取るなんていうことがうまくいくか、うまくいかないか。それは大体において階段を駆け上がる犬に向かってシャッターをきるようなもので、うまくいくときもあればうまくいかないときもある。それでもシャッターをきれば写真は残る。じゃあどうしよう。常識に照らせばいい。シャッターをきればいいのだ。普通だ。

一生懸命に生きなくてもいい、当たり前に生きればいいのだ。友達は友達だし、恋人は恋人、困っている人は困っている人だ。常識に照らして目の前の彼らに接していけばそれでいいのだ。

もちろん常識には限界がある。当たり前と思っていることに従っていると不測の事態には対応しきれないこともあるだろう。とにかくデカいことをしたいって人には常識だけでは物足りなくなるときがくるかもしれない。常識を広げていったり調整したり、という簡単な話とも思えない。このあたり映画内で簡単な解決を見せなかったのはよかったと思った。

常識にははっきりと限界がある。

でも、だからといって常識を捨てるべきだろうか。それで物事がうまくいくだろうか。よしんば物事がうまくいったとして、うまくいったと思う心、一瞬を切り取った写真、なつかしく振り返る余地なんかは残るだろうか。

こうやって考えだすと僕にはすごーくむずかしくなってくる。すべて飛び越えて「結局なにも残らない」と言いだすのはすぐそこだ。そうならないように大事なものの側に繋ぎ止めてくれるのはスーパーヒーローではなく、当たり前の常識とそこに見えるキラキラなんだと思う。

 

横道世之介」は、普通なんだけど、常識とキラキラが画面に並んでいる、あんまり見ないタイプの映画なので、ぜひ一度見てみてほしいです。高良健吾の笑顔とってもいい感じだし。あと、吉高由里子のあのお嬢様感は至高。よく笑うお嬢様、これはもう完全にタイプですね。

 

それにしてもこの作品を映画館で見る機会を逸したのは痛い・・・・。

観るのが『魔の山』のすぐあとになったのはよかった、と自分を誤魔化しておこう。

 

 


『横道世之介』予告編 - YouTube