う飄々(仮)

いうてまじめやで。

一般>特殊

 

演劇をされている方たちと接する機会があった。

演劇ワークショップ(以下WS)なるものに参加してきたのだ。僕はそこで疑問に思っていたことを解明しようとした。

演劇WSといってもバリバリの役者の方ばかりが参加するものではなく、たぶんそれ系の中でももっともライトな、素人のためのWSだ。とはいえある程度継続して行われる中・長期的なもので、素人参加型ではあるが意欲的な役者の方や、セミプロとして活動している劇団の方、あとは昔なんらかの演劇活動をしていたという人たちも多く集まってのWSだった。ようするに舞台経験のある人たちが集まっていたのだ。

僕が疑問に思ってきたことというのは、「どうして人前で堂々と発表をできるのだろう」というものだ。自分がそう出来ないことからくる素朴な疑問である。でももう少し進んで、「人前に進んで出るメンタリティが不思議でその中身を知りたい」とか、それらしい(それらしくもないか)疑問になった。

演劇WSに行ってみて、しかもあろうことか、自分も舞台の上にガタガタ震えながら立ってみて、ちゃんとした答えが出ればよかったのに、自分の実感としてはさっぱりわからなかった。とはいえ、自分自身の実感なんて実際に演るまでもなくわかっていたことで、昔、小学校の頃ミニバスをやっていたときにも練習ではそこそこやれることが試合では全然できなくなってしまうという「症状」を発見して苦い思いをしてから基本的に何にも変わってはいないことはわかっていた。「やらないでわかるものか」系の言説はいいかげんな嘘だと思っている。大体、そんなこと言ってる人たちのやってることなんて想像つくだろ。でもそんな甘い言葉はいつだって信じていたいもので、「やれば変わるかも」とか「やってみたら違うかも」とか「自分の殻を破れるかも」という期待も捨てきれなかったのであった。でもそういう甘い見立てとか期待感があるから純粋な好奇心というものを「えいっ」とばかりに行動にうつせるという一面もあると思っていて、しいてそう思うことにしている面もないではなく、むにゃむにゃ。

しかしそんなこんなで自分自身に関する軽い期待は簡単に打ち砕かれた。まあそこは想定内、想定内・・・・。

 

僕が演劇WSに行って心がけたことは他人を観察することだ。「演劇やりたーい」と言って集まる人たちというのははじめから自分とは身体の組成レベルでちがうものだと確信していたから、観るものすべてが新鮮な経験になるだろうと思ったのだ。まあ、ジロジロ見ている僕はもしかすると気持ち悪かったかもしれないけど、「でも君たち、見られること好きなんでしょ?」とか考えて気合で乗り切った。

飲み会の場では、ビールで気が大きくなって「どうして演劇をするの?」というそのものズバリな質問を当ててしまって、「自己顕示欲つよいからかな」などという何の説明にもなっていない答えをさせてしまうという失態も犯した。いやいやその中身が知りたいので。中身というか具体的内容か。

あの人たち「頭おかしい」というのはちょっと思っていて、たぶん世の中的にも自分とまるでちがう考え方を選んでいる人の頭はおかしいということになっている。僕のなかでは「頭おかしい」というのは価値ある評価なので、自分ではなく他人が「頭おかしい」という状況を放っておくことができずに、そのおかしさを解明したかったのだ。それができたらたぶん安眠できる。いや、もともと寝るのは得意だから超安眠できるはずだと。

ところで関係ないけど、相対性理論のことを本屋さんの「だれでもわかる相対性理論」という本で知ったとき、たしか中学生ぐらいだったと思うが、「特殊相対性理論」のほうが「一般相対性理論」より当然すごいものと思っていて、実際には逆だと知ったときの驚きはデカかった。「ええっ!?」と思ったし、「アインシュタイン大丈夫か?」と思った。

アインシュタインは頭がおかしい人物の代表格といえる。実際のことはわからないけど、あの一番有名な写真を見たらやっぱり感覚でそう思う。そういうイメージもあったから相対性理論において「一般」が「特殊」の応用だということが感覚と食い違い、違和感を覚えることになったのだった。

 

芸術というのは、観る方はそこに何か特殊なものを見出そうとする。

「観る専」は何に接するにしてもまず対象の特殊性を見ようとする。どんなものにも特殊性はあるという立場だ。それが意図されたところにあるかそうでないところにあるかは別として。

芸術というのは、生み出す方はそこに特殊なものを付与しようとはしていない。制作物にオリジナリティを意識するのは観る側の作法であって、作る方はたぶん本人が普通だと思っているものを形にしているにすぎないんだと思う。ただその「普通」は世の「普通」とはちがうもので、そのズレが芸術家に作品を生ませてきた。

 

僕はWSに参加したとき、それ以外の場でもそうするように場の雰囲気に合わせてやってきた。演劇関係の場での普通は、外から見ると普通じゃないようなものもあるのかもしれないが、僕にはそれが把握できなかった。特殊なものを期待していったのに全然普通だったというのが率直な感想で、予期していたような頭のおかしさは感じられなかった。見ることを意識してこれだから僕はあんまりいい見物でもないのかもしれない。

特殊というのは具体的には、どんなに恥ずかしい要求でもササッとやったり、吹き出しそうになるようなポーズを真顔で取り続けることができるというものだったが(幼稚なイメージですね)、そういう突き抜け方はしていなかった。おかしかったら笑うし、普段の生活ではしないようなポーズには照れるし、いたって「普通」だった。

ただ、ときたま石のようになっていると感じられる瞬間があって、それを見たときには「役者だな」と感心させられた。その一瞬の間だけは意識を持たない石の彫像ように見えた。普通と石の間を瞬時に行き来するスイッチの技術(?)がすごいと思った。

身体だけの存在になるということなら「慣れ」でどうにでもなるというか、人前でも寝るというのがその最たるものだと思うけど、そうじゃなくて、目で見て耳で聞いて考えてという存在から身体だけの存在へ、身体だけの存在から目で見る存在へと切り替えていくのがすごかった。没入感とか没頭するとかいう状況をキープする能力、いわゆる「集中力」というのも高い人が多いと思って感心したけれど、とくに感心させられたのは反射的なスピードにも思えるオン/オフの切り替えだった。考えるのがオンで考えないのがオフだと僕なんかは考えて生きているが、それがあべこべになっていて、考えないのがオンで考えるのがオフの場だったように感じた。

誰かに身体を見られるという場でそのことを考えないようにするのは難しい。普段の生活では演劇的にオンの時間が多い僕でも、いざ見られるということになれば勝手にオフに入ってしまってオンにするのが難しい(というかできない)。羞恥心がよく働くのだ。

で、はじめの想像では羞恥心なんか持ち合わせないという人が最強の場でそういう人たちが多いだろうと思っていたのが、むしろ僕と同じぐらい羞恥心がつよい、つまり人一倍羞恥心がつよい人がほとんどで、しかもうまく石になると見ていて感心させられることの多い人もそういうタイプだったりする。二六時中ストーンの石人間が最強かといえばそうではなく、WS内で小さなゲームをするにも頭で理解する部分は必要で、石になりっぱなしではうまくいかないんだと思う。僕はゲームに関しては小器用に立ちまわってそこそこの成果を上げるのだが、ゲームと思えない状況では途端にダメになってしまう。「切り替え」がすごいと思うようにはなったが、同じ切り替えができないにしても石人間のほうが舞台向きなんだろう。わかってた事とはいえ、やっぱりつらい。

 

相対性理論と一緒で普通がよりすごいという結論になった。基本的に普通で行って、ここぞというときに石になれるのが一番すごいんだということに。そうすると「なぜ石になれるのか/どうやって石になれるのか」ということが次の疑問になるんだけど、たぶんそのままの質問ではまたうまくいかないだろうし、たぶん石になることのできる方たちご本人は、普通にそれができるようになるだけの訓練を積まれてきたと思うので、「何かしら持続的にトレーニングをしているのがすごい」という普通の結論をリスペクトを込めて述べておくことにする。

 

それから、WSの行きがかり上「舞台の上」を経験してもみたのだが、なぜ舞台に立つのかは今もってまったくわからない。これに関しては普通どころかもはや正気とは思われない。あたま、・・・・。

でも稽古というか練習はすごく楽しかったです。

 

 

演劇入門 (講談社現代新書)

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