う飄々(仮)

いうてまじめやで。

絶対泣く系のやつ

 

映画にしろアニメにしろ小説にしろ何にしろ、絶対泣く系のやつがあると思うんです。

それはもはや「あざとい」とかではなく、いろいろ超越してしまってるというか、泣くといっても「絶対」なのでそこに意味がなくなるというか、ある種の価値だということから降りてまでそうするという「つよい意志」のもとで描かれているような感じがあってとにかく全員が絶対泣くという結果だけが残るみたいなそういうやつがあると思うんです。

たとえばキルラキルの7話「憎みきれないろくでなし」のEDが流れるところなどは絶対泣く系のやつです。まあ実際には泣きはしないけれども、方向性としてはああいうのが絶対泣く系のやつです。

小津安二郎の映画にもそれがあります。しかも一回だけではなく何回もあります。嫁入りシーンです。大体が笠智衆演じるお父さんに、原節子をはじめとする娘が「お世話になりました」と対面する場面。それもほとんど映画のクライマックスなので集中を外すことも出来ないため絶対泣くということになります。

見残していた小津の遺作「秋刀魚の味」をとうとう見ました。ギャオで無料だったから、ちょうど見るべきタイミングがあったからです。

小津安二郎はお洒落ですが、僕は彼は「世界史上」というくくりでも一、二を争うほどの洒落男だと思っています*1。著書もエピソードも全然知らず、最近になってWikipediaを見たぐらいで、実際には小津安二郎のこと何にも知らないけれども、映画の画面からお洒落に命を賭けているのが伝わってくるのです。しかし、当然と言っていいかわからないけど、僕の印象では当然、小津はお洒落に命なんて賭けなかったと思います。そもそもお洒落に命を賭けるやつなんてその時点でお洒落失格ですから。お洒落お洒落言うのは、ハットをかぶった小津安二郎の写真を見たからです。洒落者を絵に描いたようでとにかくかっこよくて俳優だってできたんじゃないかと思います。

Wikipediaを見て小津安二郎はこだわりのつよい作家だったということを知りました。画面の構図に空間的にも時間的にもこだわり尽くして、役者に同じ台詞や動作を何十回でも繰り返させたというエピソードがあるらしいです。こだわりいうのはお洒落の対極にあるものです。お洒落に対するつよいこだわりがかえってお洒落を弱めるということはお洒落界でのあるあるネタです。小津もそうだったのでしょうか?

ちがいます。小津はそうではありませんでした。なぜなら小津の作った映画が見るものにこだわりを感じさせなかったからです。小津カラーというものはあります。しかもただあるだけでなくつよくある。でもそれはこだわりというこわばりではなく映画の必然形に思われるのです。シーンのひとつひとつを眺めて、それ以外のやり方があったろうかと考えてみたとき、長く考えれば考えるほど小津の画面に吸い寄せられていくような気がします。それが流れるように次々と繰り返される。取るに足らないもののように見えちゃう。しかも異様なほどこだわってそこにたどり着くのです。淡白なぐらいプッツリ切られたカットも、やけに長く回すなと思えるカットも、あとから思えば絶妙なフィット感があったように思えてきます。それほど小津の映画には感覚的な安心感がある。

小津のお洒落といったら台詞です。ここはわかりやすいぐらいお洒落で、ちょっとした会話にも独特の浮遊感があります。現実と比べるとなんかちがうんじゃないの、と思います。でも映画を見続けるうちにその世界が立ってきて、現実と比べようとするのがちがうという結論に辿り着くようになっています。むしろこっちのほうがいいなと思う。かといって反現実というわけでも非現実というわけでもない。これはどこかで聞いた言葉なのですが「亜現実」というのがしっくり来ます。会話そのものをリアルに掴むんではなく、そのときの日本のメンタリティをそっくり掴んで、小津のリアルに変換している感じです。だから浮遊感があるしそれでいて現実的にも思える。それを支えているのが画面の安心感です。

僕としては、絶対泣く系の「嫁入り」のモチーフを繰り返し描いたことが小津のお洒落をもっとも表している「お洒落ポイント」だと思います。ここのバランス感覚というのはまさに空前絶後です。

どういうことかというと、小津はここでセンチメンタルをセンチメンタルのままやさしく取り扱っているのです。それは医者の実務的な手つきではないように思える。かといって対象をそのまま切り取るような自然主義でもない。あくまで映画として操作しているのです。センチメンタルと言いましたけれどもそれは便宜上のことで、センチメンタルに含まれる微妙なニュアンスを一回リセットして「嫁入りという事件」と言い直してみたいのですが、それをすると事件に伴う当事者の思い抜きにあえて「ドライに」「客観的に」とらえているような感じがして、それも不自然です。

俯瞰できてるアピールはダサいですし、俯瞰できてるアピールがダサいから直球でいくという姿勢もダサいとまでは言えないにしても不自然ではあるのでお洒落からは遠いです。それに、片方がダメだからもう一方へ進むというのはお洒落のレベルでというより「正論」のレベルでダメな(というかうまくいかない)やり方だと思います。ですから真っ当なものというのは必然的にその間のどこか、あるいはべつの選択肢、ということになってくるのですが、それではいつか葛藤に捕まってしまう。

どこかでジャンプすることが必要なのです。袋小路に陥ったときに跳躍してやり過ごすことが。これをできるのがお洒落なメンタリティというものだと思います。

飛躍ができれば十分お洒落ピープルの有資格者だといえるのですが、世界史上一、二というようなことを口走ってしまったのでその部分、「さらに」のところをいうと、「袋小路に陥ったからジャンプする」という因果関係が見えちゃったらそれは真のお洒落ではないのです。きびしい見方をするようですが理解できる理論にかっこいいはあり得ません。

小津は袋小路にぶつかる前にすでに飛んでいるのです。きわどいシーンがいつの間にか終わっているということが小津の映画にはよくあります。きわどいものを回避しているのではありません。そういうのは逃避すればかえって強調されるものです。「東京暮色」の生死のコントラストなんかはものすごいです。正直ちょっとやりすぎだと思いました。あれにはチェーホフも真っ青でしょうね。

いつ飛んだのかわからない、それが小津のすごいところです。たぶんあの浮遊感(のようなもの)が鍵だとは思うのですが、どうせ考えてもわからないのでこのへんでお洒落に切り上げておきます。アデュー!

 

 

 

 

*1:予想ではチェーホフと決勝戦です。