役に立つということ
「役に立つ」っていうのは、他人のためになるということ。
他人のためになる、というのにはいろいろなレベルや種類がある。パッと思いつくのはこの2つ。
- 正しいことを言って他人の認識を正す
- おもしろいことを言って他人を面白がらせる
どちらも役に立つ=他人のためになることだ。
でも1と2は同じ場所に立って喧嘩することがある。「俺こそが役に立つ」と主張しあうわけだ。
2によって1が批判される場合は「つまらない」が使われる。
1によって2が批判される場合は「正しくない」が使われる。
どちらも互いの土俵に相手を引きずり込もうとする。結局、ちぐはぐなやりとりになる。
最近では虚構新聞が、どう考えても自身の領域は2なのに1に色目を使った(ように見えた)から、1を大切にする人たちからボコボコにされた。
人が攻撃的になるのは1を守ろうとするときなので、ほとんどの場合、1から2へ喧嘩を吹っかけていく。よく見るタイプのつまらないパターンだ。反対に2から1へと吹っかけるのは新鮮でおもしろいパターンだと思う。
喧嘩は他人のためになる。どちらが勝つ(正しい)か確認するための「ため」でもあるし、丁丁発止になって盛り上がる感じの「ため」でもある。
前者は1の立場で、後者は2の立場の喧嘩受容だ。
いろんな人が見るんだから結果的にどちらも「ため」になっていて、とてもすばらしいと思う。ブログを書く人はコメントを書く人よりも「役に立つ」。
僕はネットはかるく見ているので、ネットに1はほとんど求めていない。1を主張する記事があったとしても、こっちで勝手に「おもしろいかどうか」に変換して判断することが多い。
僕も含めて、2を重視するスタンスのいいところは、平均レベルが高いところだ。クスっとさせられる、感じのいい提出物が多い印象だ。他人に喧嘩を吹っかけたりしないし、礼儀正しい人が多いと思う。ただ、例外的に場を荒らして楽しもうとするジョーカー気取りがいて、僕たちに肩身の狭い思いをさせる。あんまりおもしろくない。
反対に「ネットの」1重視のスタンスにはひどい意見がすごく多い。ほとんどがひどい偏見だと思う。でも爆笑を取るのは圧倒的にこっちが多い。それに「例外的に」おもしろい人はかなり面白い。
ただしコメントはダメだと思う。まあダメじゃないけど、コメントには例外はあり得ない。コメントというのは手軽にできる分、例外にはなり得ない。
1重視の人のコメントはつらい。つまらないじゃなくてつらい。
意見なんてものは持っていないし、持っていてもオープンにするつもりがはじめからない。だからコメントに書く。本当に意見があるのならコメントという形は取らないはずだ。
コメントには、ひどい感じになるか、礼儀正しくなるかの選択肢しかないと思う。1で猛進する人は、特定のトピックでは(当人がコメントするに足ると感じるようなトピックでは)なりふり構わない感じになる。
「礼儀とか言ってられないの!わかる?」って感じのコメントは本当にひどい。わかるけどひどい。
僕はなりふり構わない姿勢には尊敬をおぼえる。そこはどうしても畏敬する。あってるか間違ってるかでは見ない。ほとんどの物事は最終的にはどちらとも取れるってことになるから、結果ではなく姿勢で評価する。猛進するのはすごいと思う。
で、猛進してコメントかい!つぶやきかい!ってずっこける。
もっと文字をたくさん書いて猛進してほしい。きっと振り返って暗澹とした気持ちになるから。猛進する元気がなくなって従順におとなしく礼儀正しくなれるから。たぶん一番自然な感じで。
もしいつまでも猛進できるようだったらすごい距離走ってることになるし、たぶん人がついてくるようになってるはず。それが例外ということ。
ただ、走り疲れた人が過激なコメントをするんだろうと思うとつらい。もう他人のためになんかならないでいいから、ゆっくり休んでほしい。