う飄々(仮)

いうてまじめやで。

余計なお世話と親切のちがい

 

似ているようでちがうものはこの世にたくさんある。

たんにちがいを見るなら、全部ちがう(=全部ちがうという点で全部いっしょ byガガ様)というだけのことだが、一見、同じように見えるというところからふたたび「ちがい」を見出すというのは「ちがい」がはっきり意識されることだ。似ているものにこそ違和感がつよく感じられる。違和感というのは、同じであるはずのものが実はそうじゃないというところに生じるからだ。同族嫌悪というが、本当に同族ならば嫌悪されないんじゃないかと思っている。同族のようでいて実際にはちがうから、込めていた期待がまるまま厭悪に変わるということが起こっているような気がする。

人びとに嫌われるもののひとつに「余計なお世話」がある。あまのじゃくの僕も余計なお世話と感じられるものは嫌いだ。何を余計なお世話と感じるかというところではまだあまのじゃくの性質を活かせるのだが、余計なお世話というものがうるさいだけで益にならないどころか、積極的に鬱陶しいものであるという点ではそれもうまくいかない。

なぜ余計なお世話が嫌いなのかといえば、親切が好きだからだ。

たとえば、電車に乗っていて目の前の老人らしき人物に席を譲るべきかというシーンを思い浮かべると、このふたつのちがいがはっきり意識されるのではないだろうか。

「ひょっとするとここで席を譲るのは余計なお世話というものではないだろうか」

こういう疑問を抱いたことがない人は幸せだ。ネイキッド・キングの資質がある。

親切心を発揮しないことによるそれより、余計なお世話と思われることのリスクを回避する人は残念な人である。とはいえ残念な人を批難する気にはなれない。死なないように気をつけて生きてやがて死んでいく人たちを批難できるのは不死身かキングだけだ。

話がすこし大それた。

余計なお世話と親切とのちがいは身近なところにもある。席を譲るというだけのことでも、スマートにできる人もいればヘッタクソな人もいる。しかしスマートなほど親切でヘッタクソなほど余計なお世話かと言われればそうではない。趣味としてスマートを好むあまのじゃく人間にとってさえそれはちがう。両者の差ははっきりしているけれど、その差は見かけのテクニックとはまたちがったものだと思う。そして、それを決めるのは席を譲る本人ではなく、譲られる側の人や周囲の人、ようするに受けとり手だ。

超アンフェアだ。席を譲る人はかわいそう。譲られる側に「余計なお世話だ」という顔でもされたらたちまちのうちに死んでしまうぐらい譲る側は立場が弱い。もはや立ち上がってすぐ別の人に席を譲られていいレベルである。もしそんなトラウマを被った人間が「残念な人」化したとして、あなたは彼に石を投げられるだろうか。「おお、勇者よ。死んでしまうとはなさけない」とでも言うのか。

余計なお世話だと思いそうになったとき、勇者のみすぼらしい装備に目をとめて、その勇気を買うぐらいの度量は持っていたい。

僕自身のメンタルの仕組みでは、そういう広い度量の人間に対して親切を発揮したいと思うようにしているので親切するにも人を選んでいる。選ぶのは知っている人に対してで、ひどいと思う人には何にもしないしそれで何にも気にならない。知らない人はみんな寛大な人にちがいないと思って選択コストを減らす。面倒だから裏を読む気はない。他人に関してはキングか勇者かという区別もつけない。すごい人、残念な人ぐらいのざっくりした評価だ。「残念な人=ひどい人」ではない。「すごい人≠ひどい人」でもない。相関はあるような気はしているけど、ひどい人には一秒でも惜しいのであまり考えない。弾の避け方などは考えるかもしれない。残念な人も考えない。石を投げるのももったいないというのが正直なところ。

また話がずれた。とりあえず補足しておきたいのは僕の知り合いに残念な人はいない。言わずもがなのことだけど、交流がある相手のことを残念な人呼ばわりすることは嘘でもできない。僕だって自分のことを残念だと思いたくないし、自分の過去のことも残念に思いたくない。成長したと思うために自分の過去を暗黒視する必要はラッキーにも僕にはない。なかったことにしたい事柄は20個ほどあるけど。まあそれはそれとして。

 

ようやく本題に入る。

僕がここで言おうと思っていたのは「文章の親切度」だ。

読みやすさ・リーダビリティについて、書き手が意図することと読み手が感じ取ることとの差異について。

読者が読みやすいようにと書かれた文章にも二種類ある。余計なお世話と親切だ。親切じゃない文章のほうがかえってしばしば読みやすいと思うのは、あまのじゃくだからというよりは余計なお世話にイラつかさせられて文意に集中できないからというのが大きい。当然親切な文章のほうが不親切なそれよりも読みやすいし、読んでいて楽しめる。

僕はジャンルとしてのライトノベルが嫌いだ。あの特有のサービス精神が鼻持ちならない。媚びてやってる感に不完全さを感じる。媚びてる感自体そんなに好きじゃないけど、透徹した媚びというのはそれはそれで感心させられる。ミサトさんの「サービスサービスぅ♪」を知らないおばさんがやっていたらムカついてしょうがないだろうけど、それに似た感じがライトノベルというジャンルにはある。「こうすりゃ喜ぶんだろ?」みたいなのが見えると寒気がする。ミサトさんのは完全な当てこすりだからセーフだけど、それでもやっぱり少しムカつくし、積極的におもしろいとは思えない。

「コピーのコピーのコピーのコピー」と言う皮肉があったけど、本当にちゃんとコピーできてるなら「コピー」だけで済むはずだ。そういう皮肉で表されるものは、似て非なるもので本当の同族ではない。オリジナルに対する愛着が、似ているけどちがうもの(失敗したコピー)へのイラつきに換わる。

難しいのは、僕にとって余計なお世話でもより寛大な人にとってはありがたい親切になるかもしれないということだ。というかそういうふうになっているからそれが存在するんだろう。誰も望まないものは存在しない。

余計なお世話のようになるのをおそれて、読みやすさへの関心を放棄した文章は潔くて好きだ。中身は読まないけど、いいぞもっとやれという気持ちにさせられる。読まないけど。

読みやすい文章が「読者のため」というのは嘘だよね。でも読みやすいというときのやすさは読者にとってでしかありえないから本当でもある。

さっきからなんとなく苛ついているのはどうしてだろう。たぶんキングが多い気がするんだな。超アンフェアじゃないですか。文章を書くというのは。席を譲るということ以上にシビアだし、どう書いても絶対にまずい顔するやつがいる。かわいそうなことなわけ。文章を読みやすく書くというのは。でも見渡したら不死身のキングばっかりに見えてやれんよ。やれません。

みんなスマートだよなあ、ぼかぁ、ぼかぁ・・・・。

 

できれば読みやすくしたいけど、絶対に読みやすくなんかしたくない。というかできない。いやできるけど。できるけどしたくない。残念じゃない。

 

このブログは未来の自分が読むためにと思って書いているんだけど、今のところ投稿したものは二度と読み返したくない。暗黒。

 

マジで読みやすかったらいいのにな

と、神にも祈る思いです。

 

つーかリーダビリティは読み手が高めろ。そっちでなんとかすりゃいいんじゃん。

 

面白がれ。

 

よろしくおねがいします。

 

 

適切なスケールと連続する文体

 

自由自在なやり方がいい。勝手気ままに思ったことを口にしたい。

文字にするときにもそういうやり方でひとつ、なんて思っているんだけど、そんなやり方も一貫できないで、つい固くなってしまう。

自分の場合、感情が高まったときに何かを書こうとする。テンションが高いときにそのテンションで書き始める。書いているうちに落ち着いてきたり、話に飽きて適当に切り上げたり、ますます興奮して夢中でわけのわからないことを書きなぐったりする。

テンションが低いときに無理に書く必要はない。まあ当たり前のことだけど、プロではないんだから書くことに対して責任なんてない。書く内容については責任は伴うのかもしれないけど、できるだけそんな責任は負いたくないから、適当に注意して書いている。注意して書くというより、責任が必要なことについてはそもそも書きたいと思わない。

自分がここでやっていることは「声の記録」に近い。iPhoneのボイスレコーダーのアプリでやってもいいことをブログでやっている。Evernoteでやればいいのにとも思うけど、書くテンションを上げるためにはブログは都合がいい。思いついたことをメモに書くよりもツイッターに投稿する方が備忘のためにしても自然な動線になっている。少し分量が増えるだけで基本的にはそれと同じことだ。

mixiの日記というのは素晴らしかったと思う。自分にとっては大学の時期に流行りだしたこともあって、あの楽しさをかなり享受できたと思っている。今の大学生がツイッターとフェイスブックしか持たないのはすこし気の毒に思う。短い言葉で楽しむのもできるけど大喜利とか都々逸のようなプチ創作と、鑑賞した映画なり漫画なりのちょっとした感想しか基本的に書き込めないようになっている。書き込むためのモチベーションというのはそんなに強くないから、自然な動線になっていないと長文は書かないようになると思う。代わりに写真投稿で済ませるようになったんだろうけど、それでは楽しさの量は減っているんじゃないかと思う。

文章を書くことは楽しい。わざわざ書くことでもないことを自分なりに考えて書くことの楽しさをmixiに教えてもらって感謝している。「足あと」も良かった。かわいいあの子が読んでくれたと思うと、実際はどうであれ自然な欲求として、工夫したりもっと書こうと思えた。

ちょいと手間をかけて何かをする楽しさというのはソーシャルにも求められると思う。快適快適でちょっと疲れたときに面倒なことをするのは大学生の自分にとっては貴重な時間のひとつだった。でもそもそも動線がないとそれを作り出す手間をかけないといけなくなる。それは手間すぎる。あくまで規定の、指定された場所での一手間が求められているんだと思う。文章がすごく好きだから書くという人はその手の準備さえ楽しむだろうが、文章書くのちょっと楽しいかも程度の人にとってはそうではない。そういう人にとっての、かつてmixiが与えてくれたような楽園が欲しい。

今の大学生にもそういう場所があればいいのになと思う。作文は何も極めた人のものでも、大好きな人のものでもない。特別な人はいるし、そういう人のモチベーションはどうせ無くならないんだから、そういう人にとってのサービスはそんなに必要ないと思う。特別な人ではない普通の人のための作文広場ができればいいと思う。

今のブログサービスはちょっと特別すぎる。はてなもブロマガも特別な人のための場所だ。「パズドラは楽しいけど、それだけじゃ物足りない」と思っている人の数は相当多いんじゃないかと思っているので、そこにうまいこと線路が引かれたらいいなとソーシャル関係のプレーヤーには期待している。

関係ないけどソーシャルゲーム作っている人たちって楽しいだろうなと思う。「神運営」とかいっている無邪気な様子は、チームプレーでお金が儲かる遊びしているとてもけしからん人たちに映った。あの調子だとつまらないはずの会議とかも楽しそうでいよいよけしからない。

mixiにはいい思い出があるからなるべく美しく散ってほしいんだけど、それを言うのはいくらなんでも無責任か。

 

ルールを変える思考法 (角川EPUB選書)

ルールを変える思考法 (角川EPUB選書)

 

 

滝はきれいだと思う。たしかに滝はきれいだと思う。

否応なく次から次へと落ちていく滝はきれいだと思う。

轟音にかき消して声を聴けなくする滝はきれいだと思う。

飛沫が風に交じって雨の匂いがする。

たしかに滝はきれいだと思う。

 

ダニエルとカーネマンと経済と心理

 

僕は心理学には興味ないし、経済学にはもっと興味ない。

でもその2つが組み合わさって、ノーベル経済学賞を受賞するほどの功績を残したダニエル・カーネマンには興味をもった。ダニエル・カーネマン、名前がいい。

なんとなく、クソデブで姑息で陰湿で差別主義者な悪ガキをイメージさせる。

 

 

ダニエル・カーネマン心理と経済を語る

ダニエル・カーネマン心理と経済を語る

 

 

『ダニエル・カーネマン心理と経済を語る』という本を読んだ。

効用だとか主観的な幸福について、限定合理の概念は非合理とは何がどう違うか、あるいは、意地悪なひっかけ問題みたいな心理テストを思いついて、自分を賢いと思い込んでいる人間たちの裏をかき鼻を明かすにはどのような努力が必要か、みたいな内容で結構「なるほど」と思わさせられた。

イヤミを言ってもしょうがないので率直に言うと、心理学も経済学も大嫌いだ。彼らの言い分を聞いているとなんだか侮辱されたように感じる。「一般的には」「傾向がある」「誰にでも当てはまることではない」免罪符のようにそう言われると余計癪に障る。どうしても例外を見つけたくなって、正直読んでいて気が気じゃない。

そんな心理学と経済学について一緒くたに語る、しかもノーベル賞受賞者が語るということで、悪の中枢に乗り込むような気持ちで本を手にとった。

研究者向けではなく一般人向けだったので理解できたと思う。まあでも予想通り、納得できないというか腑に落ちない部分が残った。理解できてないだけでは?という弱みがあるのであんまり大きな声で文句を言うわけにもいかないが。

文句を一言でまとめると「選択する場面というものが問題とその選択肢に比べて蔑ろにされているのでは」ということになる。いい加減に選択することときちんと選択することの間には差があると僕なんかは思うんだけど、テストではつねにいいかげんに選択されているような気がする。適当に選択することと真剣に選択することの間には差があって、その成否にも差があるということから目を背けているように思える。

賢明な人が真剣に選択した時には正しい答えにたどり着く一方で、懸命な人のすべてが正解にたどり着けるわけじゃないという問題がある。適当な選択ではみんなと同じように正解したり不正解したりする人が真剣な選択で不正解ばかりを選んでしまう、つまり考えた結果間違えていく人たちの問題は、心理学では問題じゃないように扱われているように感じる。

考える過程・考えた結果どちらもなく、いい加減な選択の結果だけを扱っているように思える。たぶんどんな人でも真剣に選択しないといけない場面があるはずなのに、その場面というものが予め無視されているように思える。

全然一言でまとまっていないし、心理学の人からすれば見当外れな指摘かもしれないけど、ダニエル・カーネマンは主観的ということに注目しているようなので、主観にとっては空間的時間的条件はとてもデカいし、主観である以上そのデカさ(あるいは小ささ)は測定できにくいということは絶対あるはずだ。

 

僕は心理学のマインドを理解しようとしていないし、こういう心理学嫌いの心理について心理学では何というのか 、例は少なくないだろうから俗称でもなんでも名称があるはずだけど、簡単にググっても出てこない。まあそれはいい。

そんなことが言いたかったわけじゃなくて、この本の一番おもしろいと思ったところが言いたかった。自伝のチャプター、「共同研究」について書かれてあるところがとくに面白かった。

 

われわれが共同で研究を行った十二〜十三年間は、人付き合いにおいても研究の上でも至福の時でした。何もかもが面白く、ほとんどなんでもが可笑しくてたまらず、アイデアが形を成して行くのを見るたびに、また嬉しくてたまらなくなりました。その頃われわれ二人の間では、相手の言おうとしていることを、言った本人よりも聞いている方がより深く理解してしまうという摩訶不思議なことが、何度も、何度も起きました。昔ながらの情報理論の法則に反して、われわれの間では、受け手の側が送られた情報よりも多くを受け取ってしまうということが普通だったのです。こんなことは、彼以外との間ではほとんど起きたことはありません。もしこんなことが起きないのなら、共同研究がどんなに素晴らしいものかを知ることもできないだろうと思います。
 
 『ダニエル・カーネマン心理と経済を語る』144p

 

ダニエル・カーネマンと彼の研究パートナー・エイモス・トヴェルスキーとが二人で協同して研究する方法がユニークで興味をひいた。

「対立的協力」という方法で、従来の回答―応答形式とはちがうやり方だという。書かれた論文について不快なコメントのやりとりをするのではなく、はじめから一緒に論文を書くということで、喩えるなら二人で一緒にひとつのブログ記事を書くということ。

変なやり方だけどかなり楽しそうだ。

楽しそうな分だけ難しそうでもある。以心伝心以上のものがないとうまくいかないだろうと思う。引用したように、発信者よりも受信者の方がより理解している状況が肝だろう。結構奇跡的なことだと思う。そうじゃないならもっと流行っててもいい。

たしかに映画界にはコーエン兄弟ウォシャウスキー姉弟がいる。

しかし彼らのような共同での映画作りは兄弟関係以外では聞いたことがない。

日本ではそんな方法は聞かない。漫才コンビも映画作りはピンでする。ネタもどちらかが書くというパターンが多いみたいだ。

お笑いで組んで天下取ろうという二人でさえ共同作業はむずかしいのだから、現実にはダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーが見せたような共同作業は奇跡的な例外にすぎないのかもしれない。

形を微妙に変えてなら存在する。編集者と作家、プロデューサーと監督、彼らはお互い高め合ってよりクオリティの高いものを仕上げる。共同作業の立派な成功例だ。たとえば鈴木敏夫と宮﨑駿のコンビなんか最高だと思う。

でもやっぱりちがうのだよなあ。

どちらかが鞭打つ馭者でどちらかが鞭打たれる馬ではいけない。両方馬か、両方馭者がいい。できれば両方馭者がおもしろい。大したものができなくても走っているだけで最高おもしろいと思う。

『ダニエル・カーネマン心理と経済を語る』を読んで、パートナーを見つけたいと思った。コーエン兄弟の「バーン・アフター・リーディング」のメイキング映像を見たんだけど、イーサンもジョエルも愉快そうに笑っていたよ。

君、映画を作ろう。

アイデアだけでもいい。実現しないでもいい。

君は俺の言いたいことを引き出しておくれ。俺に君の言いたいことを引き出させておくれ。

 

ということで、パートナーを見つけるためにパートナーを見つけるための小説を書くことにしました。いつか載せます。あなたも小説を書いておいてください。よろしく。

 

かぐや姫を見た感想というか文句

 

かぐや姫の物語を見た。

すごいとは思うけど、あまりノレなかったというのが正直な感想になる。*1

もっと率直に言うと、自分には難しかった。わからないところがあった。見終わったあと、メッセージのようなものを受け取り損なった感覚が残った。

 

途中はすごく良かった。喜んだり悲しんだり怒ったり、季節がめぐることを知るシーンは最高だと思った。自分の好きなものが全部偽物だと知るシーンは、かなしくてしょうがなかった。想像だけど、それよりつらいことはないんじゃないかと思った。

 

なぜ偽物とわかるかと言えば、絶対の本物があるのを知るからだ。この映画の問題はそこだと思う。

 

絶対の本物=月の世界で、それがあるからこそ物語に胸を締め付けられることになるのだけど、僕にはそれが信じられなかった。この映画に入れ込めない一番のネックはそこだったと思う。月の世界に関しては絵も音も美しく感じられなかった、というより、胡散臭かった。単純にイケてなかったし、グッとくるものがなかった。

とくにラストシーンには吹き出しそうになった。おいおいマジかよ・・・・、

結局、エンドロールと主題歌をかなり落ち着いた感情状態で迎えることになった。自分の平静さに動揺するほどだった。

 

何が気に入らないと言って、月の世界に本物としての説得力がないということが気に入らなかった。物語に本物を見たいという望みをあしらわれたような気になった。

とはいえ、映画内に本物はあったと思う。とくに帝には好感が持てた。気ままに捨丸ライフも、おばあさんの小さな庭も、おじいさんの赤ら顔も、どれも本物というものだったと思う。もちろん、かぐや姫のすべての動きと表情も。はっきり言って好感が持てるなんてもんじゃない。

 

ただし、月、てめーはダメだ。池に映った姿は素敵だったけれども。

 

高畑監督は計算づくしのプレーヤーらしいので、僕が受けたこういう印象も彼の手のひらの上ということになるかもしれない。そういえば鏡に映ったかぐや姫もあまりイケてない感じになってた(イケてないという可愛さがこれまた溢れてはいたけど)。

 

よしんば月の世界のイケてなさが計算だとしても、いや計算だとしたらなおさら嫌だと思ったから、こうやって文句を垂れているのだ。

つまり計算だろうがそうじゃなかろうが、月をこっち側の本物に対抗させて、こっちを偽物ってことにするんだったら、あれじゃダメだろうと僕の全感覚が訴えておるのです。

 

退廃的な匂いがする。僕の鼻がおかしくなければ。

 

 

ミカドの肖像 (小学館文庫)

ミカドの肖像 (小学館文庫)

 

 

*1:隣の席にスマホ触りながら鑑賞している女がいて、前の席に感想言い合いながら見ている大学生ぐらいの男二人組がいて、さらに後ろの席から座席を蹴られたりして、集中力を削がれたことも影響しているか。

役に立つということ

 

「役に立つ」っていうのは、他人のためになるということ。

他人のためになる、というのにはいろいろなレベルや種類がある。パッと思いつくのはこの2つ。

 

  1. 正しいことを言って他人の認識を正す
  2. おもしろいことを言って他人を面白がらせる

 

どちらも役に立つ=他人のためになることだ。

でも1と2は同じ場所に立って喧嘩することがある。「俺こそが役に立つ」と主張しあうわけだ。

2によって1が批判される場合は「つまらない」が使われる。

1によって2が批判される場合は「正しくない」が使われる。

どちらも互いの土俵に相手を引きずり込もうとする。結局、ちぐはぐなやりとりになる。

最近では虚構新聞が、どう考えても自身の領域は2なのに1に色目を使った(ように見えた)から、1を大切にする人たちからボコボコにされた。

人が攻撃的になるのは1を守ろうとするときなので、ほとんどの場合、1から2へ喧嘩を吹っかけていく。よく見るタイプのつまらないパターンだ。反対に2から1へと吹っかけるのは新鮮でおもしろいパターンだと思う。

喧嘩は他人のためになる。どちらが勝つ(正しい)か確認するための「ため」でもあるし、丁丁発止になって盛り上がる感じの「ため」でもある。

前者は1の立場で、後者は2の立場の喧嘩受容だ。

いろんな人が見るんだから結果的にどちらも「ため」になっていて、とてもすばらしいと思う。ブログを書く人はコメントを書く人よりも「役に立つ」。

 

僕はネットはかるく見ているので、ネットに1はほとんど求めていない。1を主張する記事があったとしても、こっちで勝手に「おもしろいかどうか」に変換して判断することが多い。

僕も含めて、2を重視するスタンスのいいところは、平均レベルが高いところだ。クスっとさせられる、感じのいい提出物が多い印象だ。他人に喧嘩を吹っかけたりしないし、礼儀正しい人が多いと思う。ただ、例外的に場を荒らして楽しもうとするジョーカー気取りがいて、僕たちに肩身の狭い思いをさせる。あんまりおもしろくない。

反対に「ネットの」1重視のスタンスにはひどい意見がすごく多い。ほとんどがひどい偏見だと思う。でも爆笑を取るのは圧倒的にこっちが多い。それに「例外的に」おもしろい人はかなり面白い。

ただしコメントはダメだと思う。まあダメじゃないけど、コメントには例外はあり得ない。コメントというのは手軽にできる分、例外にはなり得ない。

1重視の人のコメントはつらい。つまらないじゃなくてつらい。

意見なんてものは持っていないし、持っていてもオープンにするつもりがはじめからない。だからコメントに書く。本当に意見があるのならコメントという形は取らないはずだ。

コメントには、ひどい感じになるか、礼儀正しくなるかの選択肢しかないと思う。1で猛進する人は、特定のトピックでは(当人がコメントするに足ると感じるようなトピックでは)なりふり構わない感じになる。

「礼儀とか言ってられないの!わかる?」って感じのコメントは本当にひどい。わかるけどひどい。

僕はなりふり構わない姿勢には尊敬をおぼえる。そこはどうしても畏敬する。あってるか間違ってるかでは見ない。ほとんどの物事は最終的にはどちらとも取れるってことになるから、結果ではなく姿勢で評価する。猛進するのはすごいと思う。

で、猛進してコメントかい!つぶやきかい!ってずっこける。

もっと文字をたくさん書いて猛進してほしい。きっと振り返って暗澹とした気持ちになるから。猛進する元気がなくなって従順におとなしく礼儀正しくなれるから。たぶん一番自然な感じで。

もしいつまでも猛進できるようだったらすごい距離走ってることになるし、たぶん人がついてくるようになってるはず。それが例外ということ。

 

ただ、走り疲れた人が過激なコメントをするんだろうと思うとつらい。もう他人のためになんかならないでいいから、ゆっくり休んでほしい。

 

絶対泣く系のやつ

 

映画にしろアニメにしろ小説にしろ何にしろ、絶対泣く系のやつがあると思うんです。

それはもはや「あざとい」とかではなく、いろいろ超越してしまってるというか、泣くといっても「絶対」なのでそこに意味がなくなるというか、ある種の価値だということから降りてまでそうするという「つよい意志」のもとで描かれているような感じがあってとにかく全員が絶対泣くという結果だけが残るみたいなそういうやつがあると思うんです。

たとえばキルラキルの7話「憎みきれないろくでなし」のEDが流れるところなどは絶対泣く系のやつです。まあ実際には泣きはしないけれども、方向性としてはああいうのが絶対泣く系のやつです。

小津安二郎の映画にもそれがあります。しかも一回だけではなく何回もあります。嫁入りシーンです。大体が笠智衆演じるお父さんに、原節子をはじめとする娘が「お世話になりました」と対面する場面。それもほとんど映画のクライマックスなので集中を外すことも出来ないため絶対泣くということになります。

見残していた小津の遺作「秋刀魚の味」をとうとう見ました。ギャオで無料だったから、ちょうど見るべきタイミングがあったからです。

小津安二郎はお洒落ですが、僕は彼は「世界史上」というくくりでも一、二を争うほどの洒落男だと思っています*1。著書もエピソードも全然知らず、最近になってWikipediaを見たぐらいで、実際には小津安二郎のこと何にも知らないけれども、映画の画面からお洒落に命を賭けているのが伝わってくるのです。しかし、当然と言っていいかわからないけど、僕の印象では当然、小津はお洒落に命なんて賭けなかったと思います。そもそもお洒落に命を賭けるやつなんてその時点でお洒落失格ですから。お洒落お洒落言うのは、ハットをかぶった小津安二郎の写真を見たからです。洒落者を絵に描いたようでとにかくかっこよくて俳優だってできたんじゃないかと思います。

Wikipediaを見て小津安二郎はこだわりのつよい作家だったということを知りました。画面の構図に空間的にも時間的にもこだわり尽くして、役者に同じ台詞や動作を何十回でも繰り返させたというエピソードがあるらしいです。こだわりいうのはお洒落の対極にあるものです。お洒落に対するつよいこだわりがかえってお洒落を弱めるということはお洒落界でのあるあるネタです。小津もそうだったのでしょうか?

ちがいます。小津はそうではありませんでした。なぜなら小津の作った映画が見るものにこだわりを感じさせなかったからです。小津カラーというものはあります。しかもただあるだけでなくつよくある。でもそれはこだわりというこわばりではなく映画の必然形に思われるのです。シーンのひとつひとつを眺めて、それ以外のやり方があったろうかと考えてみたとき、長く考えれば考えるほど小津の画面に吸い寄せられていくような気がします。それが流れるように次々と繰り返される。取るに足らないもののように見えちゃう。しかも異様なほどこだわってそこにたどり着くのです。淡白なぐらいプッツリ切られたカットも、やけに長く回すなと思えるカットも、あとから思えば絶妙なフィット感があったように思えてきます。それほど小津の映画には感覚的な安心感がある。

小津のお洒落といったら台詞です。ここはわかりやすいぐらいお洒落で、ちょっとした会話にも独特の浮遊感があります。現実と比べるとなんかちがうんじゃないの、と思います。でも映画を見続けるうちにその世界が立ってきて、現実と比べようとするのがちがうという結論に辿り着くようになっています。むしろこっちのほうがいいなと思う。かといって反現実というわけでも非現実というわけでもない。これはどこかで聞いた言葉なのですが「亜現実」というのがしっくり来ます。会話そのものをリアルに掴むんではなく、そのときの日本のメンタリティをそっくり掴んで、小津のリアルに変換している感じです。だから浮遊感があるしそれでいて現実的にも思える。それを支えているのが画面の安心感です。

僕としては、絶対泣く系の「嫁入り」のモチーフを繰り返し描いたことが小津のお洒落をもっとも表している「お洒落ポイント」だと思います。ここのバランス感覚というのはまさに空前絶後です。

どういうことかというと、小津はここでセンチメンタルをセンチメンタルのままやさしく取り扱っているのです。それは医者の実務的な手つきではないように思える。かといって対象をそのまま切り取るような自然主義でもない。あくまで映画として操作しているのです。センチメンタルと言いましたけれどもそれは便宜上のことで、センチメンタルに含まれる微妙なニュアンスを一回リセットして「嫁入りという事件」と言い直してみたいのですが、それをすると事件に伴う当事者の思い抜きにあえて「ドライに」「客観的に」とらえているような感じがして、それも不自然です。

俯瞰できてるアピールはダサいですし、俯瞰できてるアピールがダサいから直球でいくという姿勢もダサいとまでは言えないにしても不自然ではあるのでお洒落からは遠いです。それに、片方がダメだからもう一方へ進むというのはお洒落のレベルでというより「正論」のレベルでダメな(というかうまくいかない)やり方だと思います。ですから真っ当なものというのは必然的にその間のどこか、あるいはべつの選択肢、ということになってくるのですが、それではいつか葛藤に捕まってしまう。

どこかでジャンプすることが必要なのです。袋小路に陥ったときに跳躍してやり過ごすことが。これをできるのがお洒落なメンタリティというものだと思います。

飛躍ができれば十分お洒落ピープルの有資格者だといえるのですが、世界史上一、二というようなことを口走ってしまったのでその部分、「さらに」のところをいうと、「袋小路に陥ったからジャンプする」という因果関係が見えちゃったらそれは真のお洒落ではないのです。きびしい見方をするようですが理解できる理論にかっこいいはあり得ません。

小津は袋小路にぶつかる前にすでに飛んでいるのです。きわどいシーンがいつの間にか終わっているということが小津の映画にはよくあります。きわどいものを回避しているのではありません。そういうのは逃避すればかえって強調されるものです。「東京暮色」の生死のコントラストなんかはものすごいです。正直ちょっとやりすぎだと思いました。あれにはチェーホフも真っ青でしょうね。

いつ飛んだのかわからない、それが小津のすごいところです。たぶんあの浮遊感(のようなもの)が鍵だとは思うのですが、どうせ考えてもわからないのでこのへんでお洒落に切り上げておきます。アデュー!

 

 

 

 

*1:予想ではチェーホフと決勝戦です。