う飄々(仮)

いうてまじめやで。

そんなら死なずに生きていらっしゃい

 

夏目漱石のエッセイ集に『硝子戸の中』というものがある。

そのなかの六・七・八に、女の告白を聞く話がある。

かいつまんで言うと、女がとても苦しい身の上を話しに来るという話である。

女は漱石に自分の境遇を小説にしてほしいという。もし先生なら、女の始末をどうつけますか?という。女は取り返しのつかない傷を胸に負って、世界でただ一人身動きも取れずにいる。

 

「私は今持っているこの美しい心持が、時間というものの為に段々薄れて行くのが怖くって堪らないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくって堪らないのです」

 

漱石は何とも返事ができない。

生きている他人に向き合っているのだから、生を根本において接するべきだという原理原則から抜けだせないで、「死は生よりも尊い」と考えながらもそれを表にはあらわせないで、ただじっとしていた。すぐ「生きろ」とは言えないでいたのである。

しかし、帰りがけに漱石は女とこんな会話をする。

 

その時、美くしい月が静かな夜を残る隈なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄の音はまるで聞こえなかった。私は懐手をしたまま帽子も被らずに、女の後について行った。曲り角の所で女は一寸会釈して、「先生に送って頂いては勿体のう御座います」と云った。「勿体ない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。

次の曲り角へ来たとき女は「先生に送って頂くのは光栄で御座います」と又云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。

 

 

「生きろ」と同じことを言っている。でも言い方が全然ちがう。

漱石自身、さいごまで、「生きろ」ということに対して、「生きた方がいい」ということに対して半信半疑だった。そういうふうに考える人にしかいえない言葉があって、それでしかあの悲しい女には向き合えないと思う。

宮崎駿の「この世は生きるに値する」というのも同じだ。それにくらべて「生きねば」という言い方にはかなり平日っぽい趣きがある。

「この世は生きるに値すると伝えたい」と言うということが、すでに宮崎駿の足の置き場所を明確にしている。この世は生きるに値しないんじゃないか、という疑いから始まっているからこそ、伝えたいと望むのだ。疑いの延長線上には「死んだほうがいい」という考え方があるのだが、彼はそこにはいないようだ。

宮崎駿は離陸に成功したのかもしれない。

漱石にはそんな気配はない。女の話を聞きながら黙って火鉢をじっと見つめている様子が目に浮かぶ。