「風立ちぬ」はもう見ましたか。
「風立ちぬ」はもう見ましたか。とてもかなしい話でしたね。飛行機を作るということはどういうことなのか、最後まで描かれていました。
「生きねば」という言葉が表わすものは何でしょうか。美しい何かを作らねば、ということでしょうか。一生懸命にできることをしなければ、ということでしょうか。限られた時間を無駄にせず一瞬一瞬を味わい尽くさねば、ということでしょうか。当然、そのすべてなんだと思います。そうでなければ、「生きねば」とは言わないはずじゃありませんか。生きるかぎりすべてがあるのです。
しかし、それを言うということは死について言うことでもあります。「生きるかぎりすべてがある」と言うことは、「死ぬことはすべてを失うことだ」と言うことでもあります。空をとぶことは墜落することを、夢を見ることは夢から醒めることを言い表します。生きることは死ぬことを言い表すようにです。
何かを持っているかぎり、それを失うということは影のようにどこまでもついてまわることです。
お話はいつか失うというその影を存在しないかのように扱うことができます。写真が一瞬の光景を切り取るように、お話は持っている状態だけを切り取ることができます。「ポニョ」がそうでした。あの世界では何一つ失われたりしませんでした。
「風立ちぬ」でも失われる瞬間は描かれません。その代わりに、主人公の持っているものが克明に描かれています。持っているものを克明に見ようとすれば、それが失われる予感が立ち現れます。
「風立ちぬ」は鮮明に生きるということを描こうとしています。死ぬほど苦しい瞬間がはっきりと描かれています。死に別れなければならないことを知る瞬間です。
主人公がぽろぽろ流す涙は美しいでしょうか。それを問う余裕はありません。血の涙を流すという表現があります。涙は心の汗だという表現もあります。でもあの場合に一番あてはまるのは、涙を流すのは血を流すようなものだという端的な事実です。それは苦しいうえに苦しく、止めることができない。
血を吐く苦しみは、たぶん血を吐いた人にしかわかりません。さらにいえば、同じ血を吐いた人でも、すぐ意識を失ってしまった場合と、はっきり意識がある中で血を吐く場合とで、苦しみ方はちがうでしょう。もし仮にまったく同じ症状だったとしても、受ける苦痛も同じだとはいえないと思います。
同様に、二郎が涙を流す苦しみも二郎にしかわからないはずのものです。
でも、僕にはわかる。
わかるとしか言いようがないのですが、さらに言えば、あなたにもわかるはずだということまで、僕にはわかる。
「ポニョ」を見て泣いたのは、失われないということが信じられなかったからです。それが信じられた瞬間があった、でも今はそうじゃない、そう思うと、急に失われたものが迫ってきたのです。ポニョの「ポニョ、宗介、好き」がこれから失われていくものに思えて仕方なくなりました。何一つ失われないことが逆説的に失うことを言い表していたのです。
「生きねば」という中にはすべてが含まれています。すべての中には死に別れなければならないということも入っています。それは異常な苦しみです。それでも生きねばならないのはなぜか。
風が立った。生きようと試みなければならない。
答えになっていません。そもそも風は答えを教えてくれません。
風は吹くだけ、僕にはわかるという気がするだけです。
宇多田ヒカル - Goodbye Happiness - YouTube
「Stay Gold」の動画探したけど見つからなかった。でもこのPVのダンスいいよね。