う飄々(仮)

いうてまじめやで。

飛び立ちぬ、いざ飲みめやも

 

飛行機設計者の話「風立ちぬ」を見て、飛行機操縦士の話も見ようということで、「フライト」を見た。

「風立ちぬ」では主人公をはじめとして、登場人物みんな「できた人」なのだが、フライトの主人公はいわゆる「クズ」である。主人公のアル中クズパイロットを演じるのはデンゼル・ワシントンだ。正直、クズというのはデンゼル・ワシントンのイメージじゃなかったが、さすが名俳優だけあって、彼が絶妙のクズ加減でクズを演じている。

じつはクズというのは表現がむずかしいもので、クズが自分のことをクズであると認めると、基本的にはそのクズ加減が減少するという「クズ自覚の法則」が生じる。もしかすると俺はクズなのでは?とチラッとでも思えば、そこがクズとしての天井になる。自覚はクズを描くにあたっては障害となるのだ。

「フライト」がうまいことぶっ飛んでいられるのは、主人公にクズとしての自覚がないおかげだ。飛行機操縦士というのは間違いなくエリートである。しかも主人公は腕利きのパイロットで、いわばエリート中のエリートである。主人公自身の自己評価も、当然エリートであるというところに落ち着いている。実際、自らの操縦テクニックで墜落の危機を切り抜けるところから物語は始まる。

これだけ見ればクズどころかエリートじゃないかということにもなるが、彼はなかなかのアル中で、事故の日も飲みながら飛行機を操縦しているのだ。飛行機の飲酒運転に見える、というかそうとしか見えない操縦描写のあとで、機体のトラブルで墜落の危機に陥るのだが、その難所を犠牲者を数名にとどめて乗り切る。事故シミュレーションで墜落を回避できたパイロットはゼロだということからも彼の実力のほどは伺える。彼は自分の実力に確固たる自信を持っているのである。

人間がクズになれるのには限界がある。しかもその限界は結構早くにくる。クズになりきるにはいろいろの条件が必要になるのだ。

・自信があること

・忘れる能力が高いこと

 

「フライト」を見れば上記2つの条件がとくに認められる。

パイロットとしての自信とアルコールへの逃避が強力に作用している。パイロットとしての腕前に関する自信はひとりよがりのものではなく、自他ともに認めるものであり、旅客機墜落を回避したという英雄の一面は確実にある。一方で彼を苦しめる問題も少なくないのだが、それについて考え、自分を省みるということを彼はしない。代わりに何をするかといえば、酒を飲んで問題から目を背けようとするのだ。

大体の場合、クズが自信を維持することはむずかしい。クズと社会的不成功は親和性が高く、社会的不成功は当人から自信を奪う。一時的に耐えることはできても、同じ状況が続けば自信は摩耗していく。自信を失ったクズは、あっという間にしおらしくなる。

絶対的自信を持つうちはクズは最強である。ところが、自信を喪失しないまでも、自信に揺らぎが出れば、クズも安泰ではなくなる。何かの拍子に反省してしまうようになれば、自分がクズであることに気づいてしまうからだ。客観的洞察も厳禁である。客観的に自分を見るようになると、これまた同様に自分がクズであることに気がついて、クズとしての天井が設定されてしまう。

 

一方で、天井破りという荒業もある。

「俺はなんてダメな奴なんだ!もう酒は飲まない!」

このセリフをアル中が口にするということは天井破りの定型にもなっている。アルコールに限らず何かの中毒者が口にする、この手の反省や自戒は前フリのようなものである。このように、クズ自覚の天井も「忘却」という魔法によって無効化される。それを助けるのが本作ではアルコールである。自罰意識や後悔の念がアルコールによっていとも簡単に無効化されるのを見るのはいっそ清々しい。主人公が飲み過ぎの症状を緩和するためにうまく違法薬物を駆使するあたり、もはやなぜだかわからないが、見るものを爽やかな気分にさせてくれる。

稀有なバランス感覚で飛ぶ主人公だが、最終的には墜ちてしまう。飛行するということは墜落につながっていて、それは避けられない。飲酒運転の達人も最後の最後には事故ってしまう。

 

やはりクズは更生するしかないのか。

すこし切ない思いでこの映画を見終わったのだが、思い返してみると、陽気なジョン・グッドマンがこの映画の救いになっているような気がした。ビッグ・リボウスキ以来のはまり役だと思う。