う飄々(仮)

いうてまじめやで。

下手の横好き好きになろうよ

 

他人により高く評価されるための方法として、大きくわけて2パターンのやり方がある。

ひとつはクオリティアップ、もうひとつは好感度アップだ。

やり方が2つあるということは、どっちの方がより効果的でお手軽かということが考えられていい。

なんとなくいろいろ読むと、クオリティアップの方がお手軽簡単だと考えられているようだ。クオリティアップについての記事はよく見るが、好感度アップについての記事はあまり見ない。人間関係のように「自分ー他人」というダイレクトな関係についての記事では、好感度アップの方法が書かれていたりするが、読んで役に立つようなものはほとんど見かけない。

実際にクオリティアップを図るのは、言うまでもないことだが、簡単でもお手軽でもない。地道な積み重ねが要求されるから、インスタントにどうこうできない。簡単なのはその方法を授ける/受け取るという場合だ。

「文章を読みやすくする10の方法」

この手の記事は「了解感」を与えやすいし得やすい。了解したものを落とし込む作業の方に優先度が高いのは当たり前のことだが、「なるほど」という了解感覚の方が快感を得やすいし、了解感覚の方が大きな要素になるのもよくあることだ。ブログに書くというときの「文章を読みやすくしたい」という気持ちの本気度は高くないし、到達目標は低い。

目標が低いというより、そもそも到達点がはっきりしていないから、「文章を読みやすくする」というとりあえずの目標を受け取っているのだ。これも当たり前だが、べつに読みやすい文章が読まれるわけじゃない。読みやすいという理由だけでは、人は文章なんて面倒くさいもの読まない。何らかの面白さがあると思うから読む。了解感というのもそのひとつで、だから「文章を読みやすくする10の方法」は読まれる。理想的なのは、知的な雰囲気がありつつも読むための障壁が低い、というところで、このメソッドの代表的成功者は村上春樹だと思う。断っておくが批判の気持ちなど一切ない。むしろインスタントに消費されることを受け入れていくスタイルは素直にすごいと思う。意図をわかりやすくするというのは、斜に構えないからこそ取れる方針だと思う。

結局、読む人にとって面白いものが読まれる。受け取る側にとって、クオリティアップというのは、じつは必要でもなければ重要でもない。最低限度をクリアしていれば文章の質は関係ない。そんなもの気にするのは本人だけで、他人からすればネット上の文章のクオリティなどどうでもいい。

面白さとクオリティは直接関係しない。

こんなこと何かを作る人にとっては当然のことなのかもしれない。このあいだ、デザインの勉強をしている人から、デザインには「いい/わるい」と「好き/嫌い」の軸があるという話を聞いて、なるほどなと思った。デザインには伝えるという明確な目標がある分、「いい/わるい」の判別がつきやすいということがある。文章にしても同じことなのかもしれない。意を達することが目的のアナウンス文には、いい/わるいの要素が多いだろうと思う。

いいわるいということなら、どの方向を目指せばいいのか、一応はっきりしているから、いいを目指してあれこれすることがしやすいだろう。

好き嫌いにかかわらず、「すっごくいい」というものも、少ないがあるにはある。

しかし、「すっごく良い」も「ちょっと好きかも」にはかなわない。ここが味噌だと思う。好きだということには特別なパワーが働く。クラシックの名曲が下手くそなラップソングにかなわないということは、個人のなかではいくらでも起こりうる。

好きということはことほどさようにパワフルである。しかしこれほど頼りにならないものもない。なぜなら好きになるべき対象は、今の世の中、大量に大量を掛けたほど多くあって、見るほうがすぐに目移りするからである。ほんとうに飽きるまでもてばまだいい方である。

他人の好きという感情をホールドしようという願望がある。恋愛しかり応援しかり信仰しかり。また、自分の好きという感情をホールドしたいという願望もある。漂流生活にうら寂しさを感じ、どこかに錨を下ろしたい、アンカーポイントを見つけたいという願望である。

アンカーポイントが見つかっていない不安は、好きなんていう感情は置いておいてでも、ホールドされる場所を探すように仕向ける。結果、自分自身の好きをないがしろにして、特別なパワーを失って、安心を得るようになる。

好きというものがわからなくなった状態では、良いといわれるものに飛びつきたくなる。どうすればいいかわからない、方向づけを失った状況には耐えられないから、とにかく良いと言われているものに飛びつく。良いは確実だと思えるからだ。

しかし、何が好きか分かっていないままでは「良い」も分からない、分かるはずがない。まず好きがあってそれから良いがあるのだ。でもマスが良いと言っているから良いに違いないだろうということで、その意見や考えに乗っかる。そして、何より残念なことにそれは間違っていない。間違っていないから好きをスキップしても問題ないことになる。マスが良いと言うものは大体において良い。なんだかんだ最適解を提示されるのだ。何かを好きである必要などないと言っても過言ではない。

ますます「いい」の方へと傾斜していくように感じられる。

「性格いい」という言葉が嫌いだ。「個人的な好き嫌いはひとまずおいて」というセリフが厭だ。嫌いだ厭だと言っているうちにますます追い詰められていく。嫌い、厭だ、ヘイトというものが「いい」わけないし、当然好きなわけもない。それなのにそういうふうにしか言えない状態が長くなるとだんだん追い詰められていく。

「いいね」もいいけど、「好きだ」という方が僕は好きだ。

 それに表現にとってもクオリティアップよりも好感度アップの方が効果的だと思う。特定の相手に向けたメッセージの場合、その相手を意識して好きに寄せることは簡単にできるかどうかは別としても方向付けはしやすい。それができればその相手を楽しませることはできる。

ところが、 不特定多数を相手にして好きに寄せようとするのは不可能に近い。どこかに方向性を定めた途端に、逆を向いている人の存在が気にかかるようになる。好きではないものと嫌いなものとのちがいは、他人の目からは見えづらい。

最後には自分がいいと思うもの・好きなものを信じないといけない。「いい」というのも判断するときには主観でしかなく、客観的にいいと思ってする判断などありえない。

自分が今どういった物事を好きなのかということはつねに考えておくべきことだと思う。

よかれあしかれそれが好きだ、というように自分の好きに自信を持てるようになれれば、現状がどうあろうが、物事は好転するようになるという気がする。