もしもローラが正義のヒーローだったら
「ガッチャマンクラウズ」というアニメがたいそう面白いらしいと聞いて見てみた。(日テレオンデマンドで8月31日まで無料視聴できるとのことです)
たしかに面白かった。対立軸がはっきりしているからエンタメとして楽しみやすい。
その対立軸というのは、ヒーローと群衆(クラウズ)のことだ。悪に立ち向かったり、何かを救おうとするとき、それを成すのはどちらなのかという仮の問をたてておいて、前者か後者かはたまた両者か、という答えを提示していくという掴みやすい流れがある。ようするに、世界を救うのは「ヒーロー」なのか、それとも「われわれ」なのかということを問題にしている。
これまでのヒーローアニメでは、世界を救うヒーローとはどんな存在であるべきなのかということが問題にされてきたようで、そのことを問うためにいろいろな方法が試されたみたいである。僕自身はヒーローのことを考えてマンガやアニメを見たりはしないので、このあたりのことは言われてみればたしかにという程度。
ガッチャマンクラウズでは、ヒーロー代表ガッチャマンと群衆代表エックスとのあいだで、人救い合戦が行われている。救済の方法に知恵を絞ったり、危機感を持って行動に及んだり、両サイドともかなり立派だ。
救う側にあって唯一立派じゃないのは、主人公の女の子、一の瀬はじめだ。
適当でおちゃらけていて、敬語が使えず、かわいい。そんな人間が動いていて立派にみえるはずがない。お母さんにガッチャマンになったことをすぐ伝えたりして、ヒーローとしての自覚ゼロだ。でも彼女は人を救ったりする。
なんとなく彼女を見ていて思うのは、ヒーローだから救うのではなく、ただ救っているということだ。救うということに自意識が働かない。救う主体なんかどうでもいいじゃんと思うタイプだ。変身なんかできなくても、目の前に困っている人がいれば手助けするというマインドがある。同時に、変身とかしてカッチョええーというマインドもある。そして、そのふたつは切れ味のいいハサミで切られたようにきれいに切り離されている。「救う=立派なこと」ではない、というかのように。
最初の数話がすごく面白かった。ヒーローとは苦悩するものだという前提を破壊しまくっていて胸のすく思いがした。僕はモデルのローラがとーっても好きなのだが、彼女がヒーローに変身したらこんななんだろうなという感じがあって、とてもにこやかな気持ちになれた。ローラは良い。本当に良い。具体的にどこが良いかというと、うーん、忘れちゃった〜☆
それに比べて、クラウズというものはやっぱり胡散臭く感じられる。群衆ははにかんで笑ったりしない。
正直、ガッチャマンは変身後のビジュアルとしてはかなりダサい部類に入るのでそこだけは気になるけど、変身しないすっぴんの一の瀬はじめという個人(ヒーローではなく)をもっとみたい!という気にさせるためのテクかなと思うことにした。
ヒーローか群衆かという対立軸自体あんまり意味ないんだけど、その意味ないってのを見せたい、っていうことなのかな。僕はそもそもヒーローなんかに興味はない、っていうともしかしたら言い過ぎになるかもしれないけど、個人主義っぽく投げやりに言うと、救いたくも救われたくもないんじゃボケ、ということにはなる。
私自身の伝記ともいうべきこの物語で、果して私が主人公ということになるか、それともその位置は、誰かほかの人間によって取って代わられるか、それは以下を読んでもらえればわかるはずだ。
『デイヴィッド・コパフィールド』の有名な書き出しで、長大な物語の書き出しとしてこれ以上のものはそう見ないというぐらい素晴らしい感じがあるんだけど、この「主人公」の意味でのヒーローというのには興味ある。ガッチャガッチャ言ってることに戸惑わない(心動かされない)連中には興味ない。
思えば「まどか☆マギカ」を見たときにも、展開とか使命とか概念なんていうものよりも、まどかちゃん特有のあの感覚が好きだったという気がする。
「救う=立派なこと」じゃないと書いたが、救うというのはやっぱり立派なことのようだ。立派ということだとヒーローという概念にすぐ回収されてしまう。なんというか言葉がちがう気がする。
「救われさせる」というと言葉遊びのようだが、そういうあほみたいな迂遠さが、じつは良いんじゃないか。それがばかみたいな率直さと混じりあうと、主客未分化、則天去私、みたいないい感じー☆の言葉を具現化したようなものになるんじゃないかと思う。僕はそういう人物に興味があるし、そういう稀有な人物を見ることに一番エンタメを感じる。
ヒーローも群衆(クラウズ)もともに虚構存在だが、僕好みのおもしろさではヒーローが一歩も二歩も先を行っている。ガッチャマンクラウズでも、現状ではヒーローのライバルになりうるのはヒールだという気がする。クラウズにスポットを当てるという矛盾からは今のところ逃れられていないからだ。
クラウズの一人が番号で呼ばれることを拒否して「梅田だ」と自分の名を名乗ったところからの一連はいいシーンだった。匿名のドラマだと思った。
稀有なこと希少なものにどうしても目がいく。一の瀬はじめという強烈なキャラクターがいる、そんな中でクラウズをどう料理するのかということにはとても興味がある。僕も続きに期待したい。
- 作者: チャールズディケンズ,中野好夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1967/03/02
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