う飄々(仮)

いうてまじめやで。

やぁ、ごめんごめん。探したよ。

 

ハウルの動く城」を見た。おどろいた。

 

戦闘シーンが、ある。大きな飛行機が燃えて、今しも墜落しようとしている。

「風立ちぬ」を見たからだろうか。以前には燃えてるな、としか思わなかった同じ映像が、今回はかなりショッキングに映った。

 

「ファンタジーはダメだ」と宮崎駿は何度も言っていた。今の世の中ファンタジーを作っていてはダメだ、と。

僕はそれを現実志向として受け取った。言うなればリアル路線というやつだと思った。ファンタジーを作ってきた宮崎駿が思い切った転回を見せたものだと感心しこそすれ、それが自分を含めた受け手の問題だとは考えていなかった。

ハウルを再見しようとしたのは、引退会見でその作品の名前が挙がったからだ。「一番自分のなかにトゲのように残っているのはハウルの動く城です」という言葉はあの会見全体の中でもかなり印象的だった。

僕はハウルが好きだったので、どういうところが宮崎駿にとって今でも痛切に、引退会見で名指しにして苦虫を噛み潰したような顔をするほど痛切に感じられるのかを確認しようと考えたのだ。

ハウルはとてもよかった。よくできてると思うし、僕はやっぱり「ハウルの動く城」が一番好きだ(ジブリ映画には一番好きな映画が7,8本ある)。ソフィーはヒロインのなかでも随一の萌えキャラだと思う。おばあちゃんになりたてのソフィーが鏡を見て慌てるシーンは、映画史に残る、屈指の萌えシーンである。「落ち着かなきゃ 落ち着かなきゃ あわてると ろくなことないよ」

それはともかく、この映画のテーマ、もえはもえでも「燃え」の方である。カルシファーしかり、「火」が重要なモチーフになっている。「火」は戦争の比喩で、墜落は死の比喩だ。もはや比喩ともいえない直接的な描き方だ。火に包まれて墜落しようとする戦闘機、その戦闘機が街に落としていく爆弾、火の海に包まれる街、そういったものがハウルでははっきりと描かれている。

そういったものを、あろうことか僕は見落としていた。いや、さすがに見落としてはいなかっただろう。凄惨なものとしてそれなりに記憶していたと思う。でも僕の中のハウルの印象は、「火」とはまったく別のものだった。うまく言葉ではいえないが、それはいい感じのものだった。ハッピーエンディングで、美しいファンタジーというのが僕の受けた感じだった。

僕はファンタジーが好きだ。

というか現実があまり好きじゃないから、それを向こうに置いた諸々が好きで、その有力なひとつであるファンタジーには親近感を覚えたり期待したりしている。だから、正直なところ、宮崎駿が「ファンタジーはもうダメだ」と言ったときには、多少なりとも「何言ってやがる」みたいに思ったと思う。でも基本的には、この人がそう言うんなら事態はよっぽどなんだろうなと、言葉の意図を実感できないままに感じていた。

ハウルを見返してみて、戦闘シーンを、火のシーンを全然見ていなかったことに気がついた。裏に隠された意図を見ようと躍起になるあまり、表面にあるもの、そのままじゃんというものを見落とすのを愚かなことだと思っている自分も結局、見たいものしか見ていないということに気づかされた。

"I am a deeply superficial person."

アンディー・ウォーホールの言葉。おれもそうだと言いたいけど、まだまだだと思い知らされた。

宮崎駿がファンタジーはダメだと言った、あれは恨み節だったのだ。受け手がきちんと見てくれないからファンタジーがやれない、ということだ。

僕みたいな軽薄なジブリファンが、「ハウルが美しい」、「ソフィーが好きだ」とだけ思って受け取っているようでは、作者もさぞ不安になることだろう。これだけ火を描いたのになんだよそれ、と思っても無理からぬこと。

僕は「風立ちぬ」を見てから、ようやくハウルの火のおそろしさに気がついた。同時に自分の不明について身につまされた。

 

しかし、それでもハウルは美しいし、僕はソフィーが好きだ。「ハウルの動く城」のすばらしさはソフィーが懸命に歩く姿だと思う。宮崎駿相手でもそれは譲れない。ファンタジーはもうダメとか言っちゃうオヤジに「何抜かす」と応えるためにも、もっと懸命に表面を見なければ、と思った。

 

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