う飄々(仮)

いうてまじめやで。

黄色い車

 

華麗なるギャツビー」がDVD・ブルーレイになるらしい。

僕は映画館で見たけど、DVDで見るにしても充分おすすめできる映画だと思う。

 

この映画には7月2日のエントリで触れている。

「美しい映像」というと、それを見ていない人にはピンとこないばかりか、ある種の身構えをさせてしまうだけで、興味を喚起することができないんじゃないかとふと思った。

上のエントリでは美しい「悪趣味」だと書いている。黄色い車、部屋中の白い花、恍惚のパーティーなどなど、たしかに悪趣味を極めている。

悪趣味とはどういうことかというと、べつに貶める意図があってその言葉を選んだわけではないが、感覚の問題で済ませていたのはたしかだった。頽廃的なものをエスカレートさせていけば、それはそれである盛り上がりを見せるだろう。その盛り上がりを言い表わそうとして「悪趣味」というのは感覚的ではあっても伝わるという判断だった。

「美しい映像」に似て感覚的な言葉だ。でも人は「趣味が良い」に身構えはしても「悪趣味」には身構えないんじゃないか。それに「悪」という言葉はキャッチーで、充分なフックになり得る。僕の場合はだが。

たとえば、画像情報として「美女」はいくらでも並んでいる。べつにわざわざ見たいとも思わない。しかし、「魔女」「悪女」のたぐいは、どれツラを拝んでやろうという気になる。それこそ悪趣味な話だが。

華麗なるギャツビー」に戻って、どういうところが悪趣味に感じられたかというと、美しさが軽いところである。俳優も含めて、非情に厳選して美しさを追究している部分がある。偶然で画面が美しくはならない。しかしそれだけではただの美しい映画だ。

美しさが軽く扱われているところにこの映画の面目躍如がある。軽く扱われるというのはどういうことかというと、あからさまに蔑ろにされているのである。

黄色い車は美しい、青い看板も、白い花も美しい。それらは美しさの記号なのだ。人間性のようなものを重視する価値観の上で、記号的に扱われるということ、キャリー・マリガンのブロンドはひとたび画面に現れたなら目を引かないではいられない。やはり美しいものは美しい。だが、美しさをしか見ない用の美しさというのは非情なもので、それを美しく見るというのは残酷な仕打ちに思える。緑の灯として誰かを思うことにも同様の残酷さがある。

悪趣味とは、美しさを美しさとしてのみ観ずることだ。一側面だけを見るというのは対象を記号的に受け止めることだ。

ギャツビーがもっとも真剣になって美を追いかけている。かれの悪趣味、かれの破滅をある美感―あわれさ―をもって見せること、これはもはやどう言い表せばいいのかわからない。美しいものをあわれだと感じることは記号的に受け止めることから一歩離れることになるだろうか。一歩に必要なだけの逸脱がないのではないかと思ってしまう。

だが、やはり美しいものは美しい。

 

映画『華麗なるギャツビー』予告編第3弾 - YouTube

 

プレーヤー持ってないけどブルーレイが欲しくなる。