う飄々(仮)

いうてまじめやで。

思い出すこと

 

ふと、これまでに出会ってきたみんなの笑顔をとりとめもなく思い出して、悲しくなることがある。

持論だが、よく笑う人というのはよく泣く人でもある。人が一生で笑う総量は泣く総量と等しい。

とはいえ、表面上イコールということではない。おかしいときに必ず笑うとは限らないように、かなしいときに必ず泣くとは限らない。その場にふさわしい態度の範疇を超えないように感情表現も制限されなければならない。

生活上、笑うのを我慢しなければならない場面よりも泣くのを我慢しなければならない場面のほうが多い。

かつては「歯を見せて笑うな」という文句が有効だったらしいが、今もし同じことを言ったとしたら変わり者はそっちのほうだろう。

 

「お笑い」という言葉が社会に浸透している。芸人といえばコメディアンのことを指す。今の社会は昔より確実に進んでいて、笑うことに対して寛容になっている。

一方、「お涙」といえば、安いプロット・浅いセリフの代名詞のように否定的なニュアンスを込めて使われる。

人前で泣くことは恥として捉えられる。

 

そのことの是非はともかく、そういった風潮は、僕自身と僕の周囲の人たちに影響を与えている。会話をしていても、笑ってほしいと思って笑わせようとしたり、相手の冗談に笑わせられたりする。自分の感情をオープンに表現することは親密さを証立てるとほとんど無意識に考えられている。だからといってところかまわず泣く人はいない。

 

僕を含めた周囲の進歩的な人たちはよく笑う。そこまで面白くないことでも、笑うことで面白くしようとするかのように率先して笑う。いくぶん神経症的で、たぶんに健康的な笑いを絶やさない。

うまく笑う人は神経症的な影が薄く、健康的な色が強い。笑うのも反復すればうまくなることだから、笑えば笑うほど、うまく笑えるようになる。

 

笑うというのは基本的には感情の発露だから、ありのままの感情をそのまま出せばそれでいいしそれだけのことだ。本当は上手い下手なんてない。

それでも上手い下手のようなものが実際にはある。笑うのが苦手という人はいる。

我慢するのが得意な人だ。

そういう人は感情を表に出すのを我慢したり抑制したりする。笑うのも泣くのも腹を立てるのも一様に我慢する。泣かないし腹を立てる素振りを見せないのは立派だが、笑わないのはすこし残念だと思う。

たぶん、そういう人でも楽しかったり、悲しかったり、ムカついたりしているんだろうけど、正直なところ僕にはわからない。ただもし本人に「感情の作用がうすいんだ」と言われれば手もなく信じてしまう気がする。

僕自身はぜんぜん我慢強くないから、我慢できるほどの感情なんてその程度の感情でしかないと高をくくってしまいがちだ。だけど、他人の感情の本当のところはわからないし、自分よりはるかに我慢強い人はいるだろうと思うから、はっきりしたことは言えない。ただもしいたとしてもごく少数じゃないかと推量している。

 

問題はよく笑う人たちだ。サービス精神旺盛な彼らは屈託なく笑う。

しかしその屈託のなさはかえって彼らの屈託の深さを表わすように思う。もしそのときは本当に屈託がなかったとしても、将来、深い屈託を抱え込まざるを得なくなるときがやってくる。

鮮やかな笑顔に心動かされるのは、気分が晴れるのと同時に、そこに影を読み取ってしまうからでもある。記憶の中の笑顔がペシミスティックに転換して、無性に悲しくなる。

反対に、泣き顔を見ると安心したり嬉しくなったりすることもあるのだろうか。こういうと変態みたいだが、そういう倒錯的な気分はむしろノーマルに属するものだと思う。

それの証拠に、激怒している演技、いわゆる「キレ芸」を見ると、オプティミスティックな転換をして、無性に笑えてくるということは実際にある。

 

我慢強い人にもそういう転換は必要じゃないかと思う。余計なお世話かもしれないが、我慢強い分、感情の発露は爆発的なものになると思う。それを置いておくのはもったいないと思う。

 

ビバナミダ

ビバナミダ

 

 


岡村靖幸「ビバナミダ:2 minutes version」 - YouTube