う飄々(仮)

いうてまじめやで。

反撃的人間の行き止まり感

 

どーん! 

すばる 2013年 11月号 [雑誌]

すばる 2013年 11月号 [雑誌]

 

 

すばる11月号掲載、福嶋亮大『「反劇的人間」のゆくえ―前田司郎について』を読んだ。

 

福嶋亮大さんは山崎正和のことを言う数少ない論者なのでひそかに注目しているんだけど、今日は上の評論を読んでいてなんとなく違和感があったのでそれについて考えた。

違和感について一言でいうと、↓

「反・劇的人間」とは劇的人間からの目線で書かれている存在なので、そこに無理があるんじゃないか。

ということになる。

 

あと、可逆時間と不可逆時間という言葉はそれ自体つよく時間を意識するが、そもそも時間について考えを持っていない劇に対してその指摘は見当違いなのではないか。

とも思った。

 

それから、「「未来」という強い言葉」というセリフが著者の立場を鮮明にしているが、自分と同じ立場でなければむこうを反とするのはいささか生硬な姿勢ではないか。

そうではない姿勢のことを「ふやけた」とイメージするのはまだ有りだけど、その見立てでは前田司郎のことを到底理解できないのではないかと不安になる※1。それを言うなら、「社会」という言葉も強い言葉だとしなければならないはずなのに、そんな気配が見られないのはどうしたことだろう。そもそも強い言葉というのは幻想で、幻想としても時代遅れな幻想で、というより、「あるか/ないか」というのは「強く意識するか/意識しないか」でしかない。「言う」というのはすでに強い。それを脱臼しようとする、それはいい。どの方向かにずれようとするのは生産的で立派なことだ。でも、意識しない人、意識しないようにさえしていない人に向かって、こういうことを言うのは非生産的で虚しいことだ。反〇〇からすれば、〇〇というのは反・反〇〇であってほしいという気持ちはわかる。だけど〇〇は〇〇で、△△は△△なのだ。〇〇であることだけに心を砕いていて、反対側に関心を持たないやつらは、強さで言えば「もっと強い」と思う。文字通り、強い言葉なんかよりも全然強いと思う。強いの定義だとか、どのルールでの強いだとか、それも大事なんだろう。しかし、強いというのは彼らにとって無用の長物なのだ。彼らが対しているのは「意識しない」ことであって、その場にあっては、意識すればさしあたっての目的※2はとりあえず果たされる。そこでは、聞こえるなら叫ばなくても聞こえるし、聞こえないならどれだけ大声で叫んでも無駄なのだ。彼らは生まれつき、そういう場所に暮らしている。つまりデジタルネイティブなのだ。

「反・劇的人間」というのは、そういうやつらをむこうに回した悲痛な叫びとしか聞こえなかった(「むこうに回す」というのは比喩だけど、嘘の比喩だ。そんなことはできない)。言うというのはデジタルで叫ぶというのはアナログだ。学生時代にしか人生の豊かさが認められないとしても、彼らには学生時代があった。何と似てて、何と一緒で、何と名付けられ意味付けられても、それはあった。

俺はそれをおもしろいと思うけど、一方で、そういうおもしろさはつまらないとも思う。突き詰めの度合いや、声の大きさが、おもしろさに関わっていかないような場所には、一定以上の興味はわかない。

「絢爛と破滅するために壮絶な意志を持たねばならず、破滅の爆発力を極大にするために傲慢な自己認識を持たねばならない」※3ような人間こそ、俺はおもしろいと思う。そういう奴はたぶんあちこち叫びまわるはずで、それだけでおもしろそうだ。

きっと、自分が手にしているものは、自分の目にはつまらないと映るのだろう。

だからといって、それを持っていない、したがって持ちたいと熱望している、その熱望をむこうに回して、それはつまらないから止めておけと言うことはできない。

余計なお世話だからできないのではない。欲望だとか、他者だとか、そういう強い言葉のためにできないのでもない。そもそも「むこうに回す」というのは、嘘かごまかしでもなければ無理があって、できようはずがないのだ※4。

なんの衒いもない「反劇的人間」は誤りである。欠如こそ彼らの持ち物なのだから※5。

 

 

※1 この不安は一体何を見ているのだろうという好奇心でもある。

※2 さしあたっての目的以外はないのだが。

※3 山崎正和「劇的なる日本人」からの引用部分

※4 嘘かごまかしがあればできる。

※5 ダウト。欠如/持ち物として見るのはこちらの見方。