う飄々(仮)

いうてまじめやで。

本当のことを言おうか!

 

大江健三郎の『万延元年のフットボール』を読み終った。

同時並行で『百年の孤独』を読んでいて、なんとなく共通点がありそうだと、お互いの本の読み始めの時期には思っていた。両方とも1967年に書かれた作品であるというところに気がついて、これもしかワンチャンあるぞと、何のチャンスかわからないけど感じたりした。

先に『百年の孤独』の方を読み終えて、あとから『万延元年のフットボール』を読み終えるという順番になったのだけど、両方読み終えてみて、全然ちがうやないかと思った。正確に言うと、『万延元年のフットボール』を読み進めるうちに、あれ、これ、全然ちがう・・・、と気がつき始めた。『百年の孤独』と似ているところがどんどん薄れてきて、『百年の孤独』がどこまでもカラッとしているのと引き比べてだんだんと粘性が目立ってきた。スタート地点は同じだけれど、お互いあべこべの方向に走りだすような印象を得て、話が違うじゃないか、と。まあ、もともとそんな話はなかったのだけど、「1967年」という共通点は2013年から見れば決定的なものに映るよね?ファーラウェイの地点での一致ということで。

しかし、この二つの小説の質がまったくちがうのは名前の時点で気づけ。と、両方読んだ人なら言うかもしれない。たしかに、片や「ホセ・アルカディオ・ブエンディア、アウレリャノ・ブエンディア、ウルスラ、レベーカ」という名前が繰り返し繰り返し出てくるのに対して、片や「蜜三郎、鷹四、菜摘子」という濃い、一回性を強調するかのような名前がこれみよがしに登場する。このちがいは読み終わってあらためて考えるとやっぱり大きい。さすがにそれはわかる。でも、しつこいようだが「1967年」という共通項の前では、まあいわゆる「文化のちがい」なのかな、で済ませたい気持ちになった。アルファベットに漢字はないし。

二つの小説は全然ちがうものだと判じた上であえて共通点に目をやると、これも時間に関するものだが、文章における時間の切り方に似たものを感じる。両作品とも、一行で、時間があっさり経過するということがある。さりげなく時間を飛ばす。漫然と読んでいると、え?え?ということになりかねないほど、あっさりとしかも一気に時間を経過させる。恥ずかしながら読んでいる「今」がわからなくなって数行戻り戻りしながら読んだ覚えがある。こういう時間の切り方は読んだことがない。「1967年」に無理やり引きつけて言えば、こういう新しい文法が流行った時期なのかもしれない。映画の時間の切り方に似ていると思った。これは『百年の孤独』の方に顕著で、映画でも5年以上飛ばす場合には画面に「5年後」とテロップを入れるのが普通なのに、そういった見せ方上のこだわり抜きにスパっと5年後のシーンに移るような趣きがある。

 

いや、いや! 時間がぶった切られるとか名前の個性だとか、そんなことはどうでもいい。ドライ/粘り気があるというのも、気候のちがいということで済ませてもいい。

 

万延元年のフットボール』にくらべれば、『百年の孤独』などは一枚の絵にすぎない。どれだけ名画だろうと、現実の時間を消費しての鑑賞に値する作品だろうと、そんなのは遠い地点の綺麗な景色にすぎない。『百年の孤独』は、それを意図して書かれている。また、そうであるからこそ、心淋しい感情を喚起するようにできている。感情移入させないことはこの一風変わった小説の成立に必要な条件である。ほとんど定点観測ほどにも三人称視点が安定した三人称小説だといえる。作者は頭がおかしい。

 

万延元年のフットボール』が意図しているのは、徹底的な観察である。観察は蜜三郎の視点で行われる。蜜三郎は観察以外のいかなる行動も取らないで、目に映る事実をひたすら観察しようとする。もっとも苛烈で残酷なその観察は、地獄絵に優しさを見出すことも容易である。地獄絵に優しさを見出し、その種の優しさに自分を重ね合わせて慰安を得ようとする、ごっこ遊びじみた自らの欲望を観察することさえ造作ない。「見る」ではなく「見える」というほうが正確かもしれない。片目を失明した蜜の視点は、限りなくカメラに近い。感情移入させないことなど、この小説においては意図の外であって、どうでもいい。行動において「本当のこと」を追求しようとする人物と、観察においてその欺瞞を暴こうとする人物とが兄弟として接するだけである。異様なのは、無残にひび割れた分裂の萌芽ではなく、すべての表面、表面という表面にひび割れを見ずにはいられない目である。蜜は頭がおかしい。