う飄々(仮)

いうてまじめやで。

図書館的人生

 

「まとめ*図書館的人生㊤」をDVDで観た。

 

脚本がおもしろい。

だれだったか俳優が、脚本がおもしろいと役者はむずかしいと言っていたけど、それがずばり当てはまる脚本だと思う。

 

その俳優が言うには、読んだ時点で面白かったら、もしそれを演じてお客が笑わなかった場合、それは役者の責任になるからやりづらいという主旨だった。

つまらない脚本だったら自分が面白くしてやるという気持ちで演じられるからかえってやりやすいとも言っていて、なるほどそんなものかと納得した。

 

劇場で観た「図書館的人生㊦獣の柱」ではセリフ回しが抜群だと思った。「まとめ*図書館的人生㊤」は動きがいいんだと思う。たとえば「感情が表情ではなく身体の動きに表れる男の話」にそういうのは顕著。オムニバス形式の小話を独特の方法でつなぎ合わせるのも動きがおもしろい。話と話をつなげる図書館の動き。DVDで見ても全体の動きが見えなかったりするから映像で見るより劇場で見るほうが楽しめるものなんだと思う。

 

動きのおもしろさは脚本では楽しめないから、その時点で役者は脚本を越えられる。だけど、DVDでは動きの全体をフォローできないからその利点を充分に活かせない。

要するに何を言いたいかというと、脚本を先に読んで、それからDVDを見た僕は、「まとめ*図書館的人生㊤」は本としての面白さの方が大きいのではないかと感じてしまった。

 

『まとめ*図書館的人生㊤』には「演劇vs戯曲」という構造があるように思える。フィクションのなかで活字とそれ以外の表現がたたかうとすれば舞台はやっぱり図書館だろう。現実と虚構との対立というテーマが煮詰まった今となってはこの対立は新鮮に思える。

虚構において現実を表現するように、演劇において活字を表現する。メタフィジカルを反転したような、ウィトゲンシュタインのメタロジカルを考えるための具体的材料となるような。(このへん自分で何言ってるかわからない)

 

短篇集には、短篇同士がつながりを持っているように感じられる短篇集とそれ以外の二種類がある。『まとめ*図書館的人生㊤』ははっきりと前者。ばらばらの人びとをそれぞれの役者が複数役演じることもそうだし、「人生」を扱うという点でも共通している。人生単位で視るということは生死を超えるということ、その方法は活字として人生を記録すること。要はタイトルそのままということ。ただ「人生は」というように直接主語に人生をとるセリフなんかは演劇という形式に助けられている部分がある。

 

脚本を読んだ時点では、セリフ回しが上手で、役者はさぞセリフを言いやすいだろうなと思ったんだけど、DVDを見る限りではなんとなく窮屈そうにセリフを言っているというように聞こえた。

ただ、脚本として読んだことのない「図書館」のシーンではそういうちょっとした違和感というか引っ掛かりのようなものを感じなかったから、単に順番の問題かもしれない。感覚レベルではこういうところの比重が大きい。声色、声量、間のとり方、動きとの連携、などなど、そういう部分も感覚的だけど、それぞれ演劇にとっては決して小さくない要素になると思う。

だからといってこれらがそのまま舞台で演じられる演劇のアドバンテージになるというわけではない。脚本を読むと頭のなかにほぼ完全なイメージが湧くといった場合、むしろ覆せないほどのディスアドバンテージになりかねない。

単に順番の問題、とは言い条、戯曲と演劇との対立ではザット・イズ・ザ・クエスチョン。

 

この対立図式は言うまでもなく便宜的なものだけど、「虚構vs現実」が虚構の中で表現される対立だとすれば、「戯曲vs演劇」は演劇の中で表現される。

だとすれば、上演される演劇はやはり外せない。こういう考えを起こしたのも脚本を読んで、DVDを見たから。あと、演劇関係ないけど『百年の孤独』読んだから。記録されたものと人生との関わりというテーマが「戯曲vs演劇」に共鳴する。

 

だとすれば、人生はどうしても外せない。

一行のボオドレエルに若かないとしても、人生はマストなわけ。ショウ・マスト・ゴー・オンなわけ。

 

しかし、こんな脚本書けることこそ何よりすごいと思わずにはいられない。勝ち負けじゃないにしても、書かれたものの勝ちだと思う。それが先だったから。

でもやっぱり勝ち負けじゃない。

たとえば、「言葉を信じてほしい」というセリフを叫ぶのが「感情が表情ではなく身体の動きに表れる男」だっていうおもしろさは「動き」と「言葉」ありきだから。

 

 

「生」っていうのは演劇体験として圧倒的で、おそらく、活字以外表現の最終形態のひとつ。『まとめ*図書館的人生㊤』は第二形態のDVDで観たからこそ、うまく均衡がとれていて、図書館的な対立というのに目が行って、かえって良かったのかもしれない。