う飄々(仮)

いうてまじめやで。

抜けるような暑さ

 

百年の孤独』を夢中になって読んだ。

 

ガルシア=マルケスの代表作。中南米の空気感としか言えないような独特のものがあるような気がするけど、気のせいでしょうか。なんとなく気だるいのは暑さのせい?

 

ガルシア=マルケスは一番はじめに「この人は死にます」という発表から入ることが多いように思う。『予告された殺人の記録』なんて、タイトルからしてネタバレ全開だし。

ガルシア=マルケスの小説は、人の一生の上に視点を置いているということをこれ以上ないほどはっきり示している。登場人物を見下ろす視点。基本的に三人称小説はわかりやすいかどうかの違いはあっても、見下ろす視点を読者と共有しようとする。いわゆる「上から目線」というやつ。

考えてみれば「上から目線」と言って攻撃する人には私小説を好む人が多いような気がする。村上春樹が大好きですと言いながら他人の「上から目線」を批判する人間はちょっと理解できない。そういう人間はわかりやすく「俺様にえらそうにするな」と言ってくれればいいのに。

 

ガルシア=マルケスは、私小説めいたところのまったくない三人称小説を書く。サイズ感、スピード感は、ほとんど歴史小説のスケールと同じだ。

特定の人物の真上に視点を置くことはある。その一瞬だけは若干、私小説めく。しかし次の瞬間にはそこから無理やり引き剥がされる。なぜといってその人物が死ぬから。

彼らは本当に気が抜けるほどあっさり死ぬ。あっさり死ぬといっても突然の事故などであっけなく死ぬのではない。あっけなく死ぬといえばあっけなく死ぬのだが、急死するのではない(急死の場合もあるが)。水たまりをまたぎ越すように時間を過ぎさせて、時間が過ぎることで人はあっけなく死ぬのだ。「百年」というのは人が生きて死ぬ単位だ。

 

時間をヒュッと飛ばされると、人物の死が、彼らが生き、何か特別なことが彼ら自身の身に起こり、幸福だったり不幸だったりしたことが、たとえば「死ぬほどの喜び」というものが1ページにまとめられる。

たった1ページだったらダメで数十ページだったらいいのか、ということになるが、そんなのどっちもダメに決まっているが、本を読むときには数十ページだったらいいと思っている。何かが書かれてあるとき、さしあたり文字を尽くすことが「特別」を強調しないことはない。

しかし、『百年の孤独』ではそういう特別な時間に文字を尽くすことはほとんどない。人物の真上に立って観察したかと思えば、すぐまた時間を飛ばし、また別の人物の真上に立つ。

英雄的に扱うことで「特別」を強調することもない。英雄的な生を生きるアウレリャノ・ブエンディア大佐は、そのまま英雄的に死ぬことでヒーローにならないよう生き延びさせられる。

人びとの心が通じ合うこともない。タイミングが違えば、レベーカとアマランタはお互い心を通じ合わせることができたのかもしれない、という妄想的な希望を抱くものの、メメとアマランタがすれ違うのを見せつけられては、「タイミングが合う」という希望も捨てざるを得ないように思う。

 

見たことないスケール感ということで思い浮かんだのは、昔遊んだ「サガフロンティア2」というRPGだ。その時にも一気に時間が飛ばされることですごく驚いた覚えがある。「エッグ」との戦い、時間を飛ばすことでそこに壮大さが付け加えられた。世代を超えてひとつの目的を達成することのロマンがあった。

一方、『百年の孤独』には目的がない。

三十二度もの敗北を繰り返し、自由党による革命を達成しようとしたアウレリャノ・ブエンディア大佐にとってさえ、革命は終生の目的になり得なかった。

感動もない。カタルシスもない。

 

ないない尽くしの小説で、いっそ清々しい。抜けるような青空を思わせる。目には綺麗でも肌には暑くてかなわない。