う飄々(仮)

いうてまじめやで。

他人のこと

 

夏目漱石の短編に『二百十日』という作品がある。

二百十日?

 

二百十日(にひゃくとおか)は、雑節のひとつで、立春を起算日(第1日目)として210日目、つまり、立春の209日後の日である。

21世紀初頭の現在は平年なら9月1日閏年なら8月31日である。数十年以上のスパンでは、立春の変動により9月2日の年もある。

季節の移り変わりの目安となる「季節点」のひとつ。台風が来て天気が荒れやすいと言われている。夏目漱石『二百十日』が有名である。

 

そもそも立春が何月何日なのか、というところから覚束ない中、二百十日という日付はなんとなく印象に残っていた。

夏休みの終わり=二百十日というイメージ。

 

『二百十日』の中にこんなエピソードがある。

田舎の旅館に泊まった男が下女に半熟卵をたのむ。下女は半熟卵を知らないという。卵を半分煮るんだと教えてやる。するとしばらくして卵を4つ持ってくる。半分が生で半分がゆでたまご。

落語のように会話が進んでいく『二百十日』の中で、作中の男も、落とし噺みたようだという感慨を漏らす、面白おかしい場面になっている。

 

「うん。やっぱり東京製と同じようだ。――おい、姉さん、恵比寿はいいが、この玉子はなまだぜ」と玉子を割った圭さんはちょっと眉をひそめた。
「ねえ」
「生だと云うのに」
「ねえ」
「何だか要領を得ないな。君、半熟を命じたんじゃないか。君のも生か」と圭さんは下女を捨てて、碌さんに向ってくる。
「半熟を命じて不熟を得たりか。僕のを一つ割って見よう。――おやこれは駄目だ……」
「うで玉子か」と圭さんは首をのばして相手のぜんの上を見る。
「全熟だ。こっちのはどうだ。――うん、これも全熟だ。――姉さん、これは、うで玉子じゃないか」と今度は碌さんが下女にむかう。
「ねえ」
「そうなのか」
「ねえ」
「なんだか言葉の通じない国へ来たようだな。――向うの御客さんのが生玉子で、おれのは、うで玉子なのかい」
「ねえ」
「なぜ、そんな事をしたのだい」
「半分煮て参じました」
「なあるほど。こりゃ、よく出来てらあ。ハハハハ、君、半熟のいわれが分ったか」と碌さん横手よこでを打つ。
「ハハハハ単純なものだ」
「まるでおとばなし見たようだ」
「間違いましたか。そちらのも煮て参じますか」

 

合いの手だか生返事だか要領を得ない「ねえ」がそれなりにリズムを作る。

しかし頻発する「ねえ」は、その意味が通らない(意味がない?)ことで、不気味な気持ちにさせる。

卵を半分煮るんだと教えて生卵とゆでたまごを2つずつ持ってくるのは笑い話なんだけど、どこか笑い飛ばせないきみの悪いところが残る。

まず、通じないおそろしさがある。

しかし、半分煮るんだと言われて、半数煮てくる人がいるということのおそろしさは、ただ単に通じないおそろしさというより、「他人」ということのおそろしさがある。

他人には他人の考えがあるということのおそろしさ。

そんなことは当たり前で、いちいち「他人には他人の考えがある」と言うのも変なようだけど、実際、おそろしいことだと思う。

 

二百十日のこのエピソードは、笑い話ふうにうまくおそろしさの実体を掴んでいると思う。

話自体はおもしろいんだけど、半熟卵をたのまれて、生ゆで半数ずつの卵を用意する下女のことを想像しようとすると、ブラックホールに吸い込まれそうになる。深淵的な、圧倒的な存在感がある。 「半分煮て参じました」 他人つよすぎないでしょうか。ねえ。