う飄々(仮)

いうてまじめやで。

惡の華麗なるギャツビー

 

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映画の日ということで「華麗なるギャツビー」を見に行った。

初めて映画館で予告を見て以来(たしか2月とかその辺りだったと記憶)ずっと期待してきたんだけど、劇場公開からタイミングが合わず、ようやく見に行くことができた。

僕がフォローしているネットの映画好きの人たちからはあまり評判を聞かなかったから、もしかするとそんなでもないのかなと思ったりもしたけど、実際に見に行ってみるとかなりのヒットだった。少なくとも僕はすごく好きだった。村上春樹の訳した『グレート・ギャツビー』を読んでいて、それがすごく好きだったから、始まってすぐグリーンライトが点灯するシーンがあるのをみて、これは期待通りにちがいないとすぐ決めてしまった。思い出補正を一切修正せずに最後まで見続けられた。

画面に華美なものをこれでもかと詰め込んでいながら、どこまでも軽佻浮薄で、俗物臭というか偽物の雰囲気が出ているところに感心した。お金を非常にかけながら重厚感というものがまるで出ない感じが画面からわかりやすく伝わった。トム・ブキャナンと浮気相手との過度に悪趣味なシーン、ただただうるさいだけのパーティー、青い顔のメガネがこっちを見ている看板、ばかみたいな走り方のばかみたいに黄色い自動車、などなど。そういったすべての悪趣味がグリーンライトとの対比に収斂されていくようで、うまいと思った。

華麗なるギャツビー』はギャツビーがたったひとりの女性のために何でもするという話で、その象徴としてグリーンライトがある。

ただひとつだけを目的にして、ほかのすべては手段にすぎない、というギャツビーの確固たる信念は、ニックの心を動かす。ニックは喜んでギャツビーの手段になる。それまでニックは、人の良い面だけを見るようにしなさいという父親の教えに従っていて、何につけても人の良い面だけを見るというのは、寛大な性格の秘訣でもあれば、対象から一歩離れて観客の位置付けを守るということでもあった。ニックはそんな余裕のある位置から一歩進むことになる。

目的にはつまらないもおもしろいもない。それを実現する過程にこそ、おもしろいものがあったりする、これはよく言われることで、事実だと思う。しかし、絢爛豪華なパーティーがただ一人の女性のためだけに夜ごと行われるそのアンバランスや、万難を排して行うことで意思の力を強調することは、観客の位置にいるものをおもしろがらせるかもしれないが、それ以上の意味はない。そもそも目的を持つものには実現の過程という悠長な考えはないし、ましてや観客などというものは度外視すらされないだろう。

ニックが自ら進んでギャツビーの手段になったのは、ひたすら目的を追いかけるギャツビーだけが退屈なおもしろさから解放されていると思ったから、彼に協力することで自分もグリーンライトに手を伸ばす追体験ができると思ったからではないかと思った。

為替を扱うというニックの仕事は「手段の手段」としての彼の存在を象徴している。彼は手段の手段になることから「目的の手段」になることへと自分を変化させたがった。

「まわりは全部がらくただ。君にだけ価値がある」

 

最近、「一神教VS多神教」という本を読んだ。一神教的な唯一絶対の観念が人間をダメにするという論旨で進む対談形式の本である。唯一絶対のものは相対化するほうがいいという意見で、僕はこの意見に賛成です。唯一絶対という観念は被差別意識から生まれたという本書の主張は、ギャツビー境遇や彼の考え方にそのままきれいにあてはまる。

また、最近ある講演で「複数の自己」を目指すほうがいいという話を聞いた。自己がひとつだと思うのは幻想で、人間は環境によって複数の自己を使い分けているという。自分を変えたいと思うなら環境を変えてみるべきだ、環境を変えるといってこちらからあちらへ移るというのではなく、こちらに加えてあちらにも行ってみるというように、環境を増やすやり方がいいのではないかという主張だった。これもその通りだと思う。華麗なるギャツビーでいうと現実代表のトム・ブキャナン方式である。

僕は基本的に、相対化の方向は正しいと思っている。目的地へと一直線なんて全然つまらないと思うし、それに耐えるだけの気力もない。

それでも、感情の昂ぶりとしてグリーンライトが見える一瞬がある。それを見ているときには他の何ものも見えなくなるんじゃないかとやっぱり思う。記憶は定かではないけど、そういうときに定かな記憶というものがあり得るのかはわからないし、それこそ幻想という気もする。ただ、わけのわからない感情の昂ぶりは確実にある気がする。

その感情の昂ぶりにどこまでも殉じるギャツビーは結局現実に打ちのめされることになる。とってもかわいそう。

同じく現実に打ちのめされる自分をそこに重ねて、自分自身を憐れんでいるだけかもしれない。物は言いようで、そう言ってしまうと身も蓋もない。逃げ場なしである。

ニックがそう思ったにちがいない、という書き方ができたんじゃないかということを思いついたけど、やめておくことにする。どっちにしてもかわいそうという感情はぼこぼこにされようが何されようが結局あるし、切り離せない。普段はもっと感情は守っていくべきだという立場で、論理さんと鉢合わせしないように注意に注意を重ねて生きているんだけど、ここは無理を通したい。道理ひっこめ!

 

しかし、道理ひっこめというようなことは本当は言いたくない。無理アンド道理(ラブアンドピースのイントネーションで)がいい。でも道理が無理をいじめる(ような気が無理はしている)。M(無理)君は被害妄想的。被害妄想に限らずあらゆる妄想はM君の側にある。希望という妄想。

たとえばギャツビーは「いや、過去は取り戻せるよ、もちろん」と最高の笑顔で言ったりする。

 

惡の華というアニメを見て、すごくおもしろいと思った。漫画のほうが記号的で、M君ということが強調されていたように思う。対してアニメは声の存在が大きいと思った。ロトスコープで実写のようなタッチになっていることで具体的な肉感のようなものが出ているけど、具体的ということに関しては主人公の春日くんの声がとにかくすばらしい効果を挙げていると思う。不安定ですぐ裏返る声。あの声が抽象度をかなり下げている。あの声を使うには漫画に忠実な絵では成立しないだろうし、いわゆるアニメ声で惡の華のセリフを読むのは前衛的すぎる結果になると思う。かといってアニメ声に寄せて演出するとただ寒くなるだけだろう。

惡の華がおもしろいのはD(道理)君がM君をいじめてて(D君もM君も春日くん)、アンバランスな葛藤があって、もっとアンバランスな人がいて、しかもそういったアンバランスとか葛藤を強調しないところにあると思う。漫画のほうはまだ観念的で巧まざる強調があるけど、アニメの方はそこからさらに進んでのっぺりしている。そういう方法が出口なしの感を強くする。

物語上いろいろあって、春日くんの行動要因になるのは「仲村さん、かわいそう」ということである。そんなものは自己憐憫にすぎないとD君はいうかもしれない。しかしM君はそれでもかわいそうがって作文を書く。ここが素晴らしいところだと思う。教室でクソムシの海を表現することはM君だけでできることだけど、作文を書くこと、読んでもらうための言葉にすることはM君ひとりではできないことで、D君の力がいる。M君はD君を自分の方向に馴致させなければならない。「すべての憐憫は自己憐憫にすぎない」とか何とかそれらしいことを言いながらかわいそうに思う方向へいっしょに進んでいく。

 

華麗なるギャツビー』も『惡の華』も、物語が閉じると、ギャツビー、仲村さんはいなくなる。

ニック、春日くんは二人目のギャツビー、二人目の仲村さんを見つけられるだろうか。

もし二個目のグリーンライトがあるとしたら、もしあちこちにグリーンライトが光っているとしたら、それに向かって手を伸ばすということができるのだろうか。それでもM君はニッコリ笑って「手を伸ばせるさ、もちろん」と言うだろうか。

 

華麗なるギャツビーの成功はキャスティングで決まっていたように思う。狂言回し役のニックにトビー・マグワイア、ギャツビーにディカプリオ、デイジー、ジョーダン、トム・ブキャナンの役者の名前はパッと出てこないけど、みんなピッタリきていたと思う。あと、服飾ブランドというのはやっぱりすごいんだなと感心させられた。衣装のかっこよさが人物を引き立てていた。

印象的なシーンが多い映画だが、とくに好きなシーンはニックの家で開かれる”ささやかな”お茶会の場面だった。井原西鶴という人は「哀しくもまたおかし」ということを標榜したが、このシーンのギャツビーはそれプラスかっこよくて、「おかしい・かなしい・かっこいい」の三拍子が揃っていたと思う。

 


映画『華麗なるギャツビー』予告編1【HD】 2013年6月14日公開 - YouTube

予告はいくつかあるけど、これが一番好き。