う飄々(仮)

いうてまじめやで。

ふはふは

 

俺もとうとう文体ということを意識するようになった。文体というと=書き言葉のようなイメージがあるけど、僕が今ここで言う文体というのはもう少し広く、話し言葉や話す時の視線の置き方手足のばたつかせ方のことである。もっと適当な単語があるかもしれないが僕が文体を考えるときには書き言葉には限定されない言葉の発し方という広いニュアンスがあるので、文体のことを読んだりするときにも拡大解釈して考えないと腑に落ちない。ので便宜的にそうしている。

 

そうやって文体について考えてみて分かったことがある。

僕の文体はテンションの高さと切り離せないということである。僕が言葉を発する時、僕の文体はつねにはしゃいでいる。

 

ひらひらと揺れる習字の半紙を想像してもらいたい。僕にとってどこかに何かを書くというのは掲示板にそれを貼り付けるということである。画鋲で半紙を壁に打ち付ける。あんまりひらひらするものだから100個の画鋲でそれを止めたい願望がある。そんなことをすると当然書かれた文字は死ぬんだけど、そうしないとひらひらひらひらして字が読めないんじゃないかと心配になるんである。

それで画鋲の数を少なくすることに神経を使っている。

 

はじめから壁に貼り付けようとしない落書きみたいなものは画鋲の心配がないから気楽なものである。しかしそうすると肝腎の字がいい加減なものになってしまう。

しっかりしていて軽薄でない文体というのは、おそらく色紙に書くようなものなんだと思う。普段使いではない特別なものに字を書く。そうすると気持ちが固くなってとたんに字も窮屈になる。玲瓏だとか不倶戴天だとか文字を色紙という媒体に寄せなければならない気にもなる。うんことかおたんことはなかなか書けない。べつに普段からそういった言葉を書きたいという趣味があるわけではない。だが、そうできないとなると気持ちがそっちに引っ張られるということが俺の場合には非常にしばしば起る。うんことか書いたらダメだなあとなんとなく思いながら安楽椅子とかノスタルジックとかそういう文字を書くとおかしな調和が生れる。そんな調和は嫌だ。

 

直立姿勢を取る号令に「気をつけ」というのがある。僕にとってのそれは両腿の側面を両手のてのひらで軽く叩くという合図である。だから「気をつけ」のあとには「礼」が続かないと具合が悪い。「気をつけ」だけで終わられるとどうしていいかわからなくなってしまうのである。

文体に欠かせないのは一定のリズムである。ある継続性を持たせないとリズムは感知させることができない。はしゃいでばかりいる文体は継続性に難点を抱える。

 

飽きるからである。