う飄々(仮)

いうてまじめやで。

落下と飛行

 

真夏にこんなこと言うのも何なのだが、スキーの醍醐味といえば、何だろうか。

僕はスキーの醍醐味とは、直滑降だと思う。人によってはターンだとか、リフトを上っていく間に足をぶらぶらさせることだとか、スキーの楽しみについていろいろ思うところがあるだろう。それらの魅力はたしかなものだろうし、否定すべきものではない。

それでも僕は、スキーの一番の醍醐味は直滑降だと主張したい。直滑降こそがスキーの楽しみのイデアであると。それは落下運動の模倣でもある。

重力を感じることは、仮想的な世界に存在しない、現実世界に独特のものである。重力を感じるということは、上にあるものが下に落ちるということを感じることである。すべての平面表現(絵画から映画まで)では、ありとあらゆる感覚を現実以上にしっかりと感じることができる。しかし、スポーツに代表される現実運動で感じられる重力だけは、平面表現では実感することができない。現実運動において重力はもっとも強大な枷として感取されるのに対して、平面表現はその枷から自由になっているともいえる。現実の運動と平面の表現では、重力の問題は白黒はっきりしているのである。重力の問題がグレーの位置にあるのは、夢である。

人は眠ると夢をみる。落下する夢をみることは誰にとっても経験のあることだろうと思う。あの瞬間を思い出しながら、夢に重力は存在しないという主張を通すのには無理があるだろう。平面表現では実感できない重力が夢の体験においてはまざまざと実感できる。

だが同時に、夢は重力から自由にもなれるのである。空をとぶ夢をみない人はいないというのは、落下する夢をみない人はいないというのと同程度あてはまるといえる。これは無重力状態とはちがう。意識的であれ無意識的であれ、「落ちない体験」として夢の飛行体験はある。つまり重力を感じているのである。感じた上でそれに影響されないからこそ、重力から自由であるといえるのだ。

落下とは死である。死に向かいながら、死を引き延ばしにすること、滑空の状態を保つということが飛行するということである。夢みることである。生きることである。

スキーの醍醐味は直滑降である。直滑降とは落下運動の模倣である。われわれは落下することに惹かれるが、落下することは死と直結している。死なないように落下しなければならない。だから模倣するのである。本当のことをしないで仮構するのである。

死なないように落下すること。夢のような話だが、うまく工夫して、ときにはそうして風になって、バランスをとって、生きている。

 

似たようなことを考えてバンジージャンプを飛びに行ったことを、風立ちぬを見て思い出した。20歳の夏だった。たかがバンジーと舐めてかかってたら、いざとぶ段になって相当ビビった記憶がある。そして今はそれが死ぬほど昔に感じられる。正直ビビる。