う飄々(仮)

いうてまじめやで。

自分を諦めたら、世界を諦めるのと同じだよ

 

トーマス・マンの短篇のなかに、普段よりも多めに自分というものを見出した。

いま、トーマス・マンの短篇に自分を見出したことは、かつて自分が何か読んだとき、いまのいまからすれば過去ではあるが、当時としてのいま、その当時の自分というものを見出した感覚に近いものがある。その近さの感覚と同じぐらいの大きさで、自分を見出した量が多めであると感じたのだ。

いまのいま、短篇集の中から三作だけ読み終わった。『幻滅』『墓地へとゆく道』『道化者』の三作である。現時点でとくに自分というものを感じたのは『幻滅』『道化者』である。自分を感じるというのはどういうことかというと、作中人物の意見と自分のひそかな意見との一致が見られるということだ。もっと突き詰めて言ってしまうと、おれと同じこと言ってる、という驚きが読書中にあるということになる。ぴったり同じことをおれも言おうと思ってたという、口に出すにはちょっと恥ずかしい感覚である。

 

どんなところに一致を見たか。

たとえば、おれは「幸せ」という言葉を内心でばかにしている。またそれと同時に、不幸という言葉もばかにしている。幸福とか不幸とかいうのはさじ加減でしかないからナンセンスだと思えてしょうがないのだ。快/不快、満足/苦痛という言葉のほうがまだ内実を表そうという気があるように思える。

幸せになりたい、というセリフをよく聞く。それを言う人は多かれ少なかれ不幸なのだろうと思う。だが、完璧に不幸という人は存在しないし、不幸さが皆無という人も存在しない。だれにでも不幸な一面はある。「幸せになりたい」というのは挨拶のようなものであって、人にぶつかれば「こんにちは」というのと同じように、困難にぶつかったときにいうものなのだ。幸せになりたいという人をばかにするのは挨拶する人をばかにするようなものであって、それこそナンセンスである。個人的な嗜好として「幸せになりたい」という挨拶文がおれは好きではないというだけで、たぶん何かしら言い換えて同じようなことをおれ自身も唱えている。

問題は、自分自身を表すのに本気で「幸せ」という言葉を使うことにある。自分の願望を「幸せになりたい」とだけ言って表したような気になることである。これが一番いやだ。本気ならもっといろいろ言ってみるべきじゃないかと思ってしまう。白馬の王子様現れないかな、でも全然かまわない。ありきたりだろうがなんだろうがそこにはビジョンがある。実現するかしないかなんていうことは二の次だとおれは思う。とにかくいやなのはかんたんにあきらめることだ。なにかおおきな漠然としたものにやすやすと回収されていくことだ。「幸せ」は大勢の人を回収していく。そのことに対しておれはつよい嫌悪感をおぼえる。

しかし、嫌悪感が掻き立てられるのは、「言い表しようのない幸福感」というものやその裏返しにあたるものを認めざるをえないからだ。幸せに対する嫌悪感をおさえて、それをばかにするときには、どうしても切実なものが混じる。切実であればあるほどばかにする姿勢からは離れていくし、ばかにするというのも案外かんたんではないのだ。見て見ぬフリをするというのは言うまでもなく欺瞞の一形式だが、彼我ともにそれをそれと知りながら、それでも彼の指摘に対してまでも聞こえないフリをしなければならないとすれば、それは骨が折れる仕事になるだろう。そして何より苛烈なのは、自分自身の感情、言い表しようのない幸福感そのものである。それらは何とも言えず甘美で、たとえようもなく痛切で、言葉に置き換えるにはそれそのものすぎる。主導権争いのしようもない。好きなもの尊敬しているものを貶すにはそれなりの演技力がいる。

言い表しようのない幸福感があるならば、完璧な不幸というのも実際にあるのかもしれないと考えないわけにはいかない。そうなると一体おれは何をばかにしようとしていたのか。一番そうしてはいけないものではないのか。一番ばかにしてはいけないものに対して、作った余裕の表情を浮かべてばかにしようと躍起になっていたのではないか。必死に、内心ではびくびく脅えながら。

こう書くと、ひじょうにばかげたループである。「幸/不幸」を軸にすると、このような滑稽でさえあるような不毛に落ち込む。

 

 

よく考えてみると、おれは次の詭弁的なばかげた概念差別を、自白せざるを得ない。内的幸福と外的幸福との差別である。――「外的幸福」、それはいったいどんなものか。――世にはその幸福が天才であり、その天才が幸福であるような、神の寵児とも見るべき人たちがいる。光に住む人たちである。眼には太陽の映像と反射とを宿しながら、軽く優雅に愛想よく人生を踊り渡ってゆく。すると世間は、そういう人たちを取りまいて、嘆美し称揚し嫉妬し、しかも愛慕する。ねたみでさえ、彼等を憎む力はないからである。ところが彼等は、子供のような様子をしている。皮肉で我儘でむら気で高慢で、明るい人なつっこさがあって、自分の幸福と天才とを恃んでいて、さながら、そのすべては決して変ることはないといった風である。――

 

 おれはどうかというに、そういう人たちの仲間入りがしたいという弱味を持っていることは、否定しない。それにかつては自分も、彼等の仲間だったような気が、当然か否かは別として、ともかくしきりにしてならぬ。全くそれは「別として」である。なぜなら、正直にいおう、およそ問題となるのは、自分が自分をどう思っているか、なんと自称しているか、なんと自称するに足る確かさを持っているか、という点だからである。

 

 

以上が『道化者 』からの引用である。

「自分の幸福と天才とを恃んでいて、さながら、そのすべては決して変ることはないといった風」

「およそ問題となるのは、自分が自分をどう思っているか、なんと自称しているか、なんと自称するに足る確かさを持っているか、という点」

 

幸福というものが不毛さにつながっているというのは、嘘ではないにせよまさに詭弁であって、本当のところ、無限ループを形作るのは自分である。

一見笑えるようだが、充分気をつけなければならない。ここで無理して下手に笑おうものなら、表情は引きつり、声はうわずって、顔面は蒼白、痙攣したように全身ぶるぶる震え出すという、完璧な醜態を晒すことになる。そんなものは、どんな卑しいどんな親切なお客も決して笑わないだろう。

以上は『道化者』からの忠告である。

 

トオマス・マン短篇集 (岩波文庫 赤 433-4)

トオマス・マン短篇集 (岩波文庫 赤 433-4)