う飄々(仮)

いうてまじめやで。

ソフトリー・ソフトリー

 

ブラッド・ピット主演のクライム・サスペンス「ジャッキー・コーガン」を見た。

 

邦題がジャッキーコーガンに改変されているのはどういうつもりなのかわからないけれど、原題は「Killing Them Softly」キリングゼムソフトリー。ソフトに殺す、ってことになるかと思う。

 

ソフトという言葉の響きには親しみをおぼえるし、主演がブラッド・ピットだということで、彼のかっこよさ目当てで見に行ったのだけれど、どうしてどうして。

かなりおもしろかった。

「ソフトリー」部分の作り込みが、僕にはしっくりと馴染んだ。これが大きかったのだと思う。

 

僕は、優しいということにこだわりがある。

ゆとりを持って生まれ育ってきた身からすれば、正しいか正しくないかよりも、優しいか優しくないかのほうが大きな意味を持ってきたし、基準として使うのはいつも後者だった。テストの点にたいした意味なんてないと教わってきたし、そんな態度も今ではすっかり身についた。

 

「ジャッキー・コーガン」のテーマはバイオレンスだ。

美しい暴力を描いている。北野映画に近いものを感じた。

この映画はR15指定だけど、もしかしたらR18でもいいかもしれない。なんというか、映画内の暴力があまりに美しい。美しすぎる。

暴力の王様は、(ケースにもよるけれど)一般的には殺人だと思う。

暴力と優しさは親和性が高い、ということに気づかされるのは次のようなセリフによる。

 

「殺そう。かわいそうだから」

「命乞いされるのだけは勘弁。あれはきつい」

「できるだけ優しく殺したい」

 

こんなこと言う殺し屋が主人公。バカなと思う明らかな矛盾を体現したキャラクター。これだけでマストだろう。見に行かないと、と思わないと。

 

ある人物がトチって組織に傷めつけられるシーンがある。組織の差し金はその人物を徹底的にボコボコにする。ぶん殴って、蹴りを入れる、言葉にするとただそれだけのシーンなんだけど、歯が折れ、鼻が折れ、アゴが折れ、アバラが折れ、内蔵を痛め……、というハードな過程をリアルに描いている。この時の音がすごい。打撃音がすぐ耳元で鳴っているような音で、かなりペインフル。

ただし、ぶん殴っている方に殺す意図はない。

 

主人公はこの組織の差し金をちょうど裏返したような格好で、その人物に接触する。

美しい映像と、控えめな銃声に、あろうことか安心させられる。「仕事」の後も、文字にするとかなり悲惨な状況なはずなのに、映像にすると単に美しいだけじゃなく、そこそこ笑える。

 

「ジャッキー・コーガン」は会話劇だ。いたるところで言葉が交わされている。

そこが北野映画と一線を画する。

殺し屋とターゲットとの会話に魅力がある。

殺し屋とターゲットとの会話といえば、コーエン兄弟の「ノーカントリー」アントンシガーが印象的だ。あの中で一番のシーンは、ガソリンスタンドのおっさんとの会話だと僕は思うが、シガーの興味が非常に限定的なせいもあって、あれは実際には会話ではない。あれはおっさんの困惑がおもしろいのであって、会話そのものは「生きるか死ぬか」という選択に生じる抜き差しならない緊張がおもしろいにすぎない。

 

まあ、そんなこと言ってしまえば、そもそもおもしろい会話なんて自分が参加するものでない限り、あり得るのかということになってしまう。

ジャッキー・コーガンの会話がアントン・シガーの会話よりもおもしろいとすれば、それはターゲットの困惑にあわせて、ジャッキーがいちいちリアクションを取るから、ということに尽きる。

そしてブラッド・ピットは困惑する表情がとてもうまい。よくブラピを評してセクシーと言われるが、これは完全にあてはまると思っている。男の表情の中でもっともセクシーな表情といえば、困った顔だろうから。

困り顔はキメ顔との距離が開けば開くほど輝く。ブラピの魅力はなんといってもこの距離の長さだと思う。

たとえばアントン・シガーの役をブラピが演じても何もいいところがないはずだ。

 

国家幻想へのアンチテーゼみたいな会話はどうでもよく感じられた。気になる人は気になるのかもしれないが、僕はオバマはやっぱり画になるなという以上のことを思わなかった。オバマは画になるし、彼のスピーチというか彼の声は映画にとって不必要なノイズにならないんだなと結構感心しもした。

 

まあでも、今言ったところを読み返してみると、僕もやっぱり映画にとっての何がしかのノイズとして政治性を捉えているのが正直なところのようだ。本当に気にならなかったらそもそも感想さえ書かない。

美学にとって政治性は、不協和音といえば不協和音にはちがいない。だけど冒頭から不協和音を使いますよこの映画は、という宣言があったので、まあそういうことだろうと思ったのだ。

 

現代的な会話劇にソフトリーな殺し屋が登場する。

安楽死ならぬ安楽殺が美しい暴力として描かれる。

そのことに政治性を感じまいとすることはかえって政治的な態度の表明になりうる。

だから政治を適度に、映画の美しさを損ねない程度に、自主的に取り込む。

 

ソフトパワーは文字通りソフトリーに結構な距離を走っているんだということをソフトリーに伝える映画として「ジャッキーコーガン」を見たとき、「まあ〈生死〉の問題はとりあえず置いときまして」と言わせるだけの力をすでに何食わぬ感じで持っているんだなあと思わせ、でも「それにしてもブラピかっこよかったあ」が諸々に勝つさまを自分のなかに発見して、ソフトリーすごいぞと打ち震える体験をできたという点において、僕はソフトリーに殺されたのかもしれません。

 

おわり

 

 


映画『ジャッキー・コーガン』予告編 - YouTube