う飄々(仮)

いうてまじめやで。

ゼロダークサーティ、どうして見に行った

 

「ゼロダークサーティ」を見てきた。

2時間半という上映時間の長さを忘れるような緊張感ある映画だった。チャプターごとに見出しがついていて構成はテレビドラマ的なので、メリハリがきいて緊張感も持続させやすかった。

 

まず印象を言うとザラザラした世界に手を押し付けられるような感じだった。

 

応報の世界。2001年9月11日の同時多発テロの発生から、その首謀者の殺害作戦決行までを描いている。

僕たちが普段の生活で触れている世界のなめらかなこと!スベスベじゃないか、ということを思わされる。この感覚は見ている途中で何度もあった。

しかし、僕たちはスベスベの世界にあっても絶えず心にザラつきを感じる。実際に手を傷つけることだってある。

なめらかなのは嘘なのだろうか。ザラザラが本当なのか。

 

「ゼロダークサーティ」が描いているのが「本当の世界ではない」ということはとてもむずかしい。

映画館のふかふかのソファに座って、音響設備の充実した環境でリアルな銃撃音、爆発音を聞き、手持ちカメラで撮影されたような揺れを含むリアルな映像を見る。

爆発の唐突さが、ふかふかのソファにまで侵食する。今いるこの場所も爆破されるんじゃないか、とふと思い、不安になる。

侵食してくるのは何なのか。現実か本当の世界か。そんなこと起こるはずないと思い直すけれど、ザラザラした感触はどうしても残る。それが一番リアルに感じられる。痛み。痛みへの恐怖。

 

さらにリアルを増幅するのは、終わった話ではない、ということ。

「ゼロダークサーティ」というのは時間のことを表わしている用語だと思う。午前0時半、作戦決行の時間。

そして、もう一つこの時間が示唆するのは「一日は始まったばかり」ということ。首謀者殺害=解決が本当ではないことは、世界中の誰もが知っている。

特定の誰かがいたから世界はザラザラすることになった、というのは本当じゃないような気がする。本当だったのがそうじゃなくなったのか、もともとそうじゃないのかはわからないけど、とにかく今はそんな風じゃないと思う。

 

甘えはいけないという意見がある。

その考え方はザラザラした世界を肯定することにならないか。きちんとした対処が大切だと思い切ってしまうと、ものすごくザラザラすると思う。僕はなめらかな世界が好きなので、この意見には賛成できない。

それでも現実を見ないといけないという意見がある。

でも現実っていうのは、その意見の人が思う現実よりもっとザラザラしているんじゃないか。満足できるまで現実に近づくと、殺人、拷問、自爆テロという作戦行動が見えてくる。

 

僕はいま、明らかにラジカルで、突飛ともいえる考え方をしてしまっている。

「ゼロダークサーティ」に完全にあてられて。

あれだ。自動小銃の音が本当に気持ち悪かった。すごく耳に残る。それこそザラザラの象徴であるはずなのに、硬質とはいえ、むしろなめらかな響きだったことに混乱して心がざわつく。

ふかふかだから居心地がわるい、みたいな気持ちにさせられた。

ケン・ローチ監督の「この自由な世界で」以来の感覚。

 

というか、この感じは想像していた通りなのに、なんで見に行ったりしたんだろう。

 

追記

ザ・ソプラノズのおっちゃんが出ていたのと、暗示する内容は暗いものの猿を使った「演出」が、フィクションということを思い出させてくれて、ほっと一息つけた。

やっぱりそういうのが大事だなあと思った。