う飄々(仮)

いうてまじめやで。

平和バカ、fool & pease

 

「ニュータウンの青春」という映画は誠実にバカと向き合っていた。ぼくはバカが好きだから、それを見てとても気分を良くした。笑わせてくれるシーンは、いい塩梅でバカのバカたる特徴を切り取ることで成り立っていたので、安心して笑うことができる種類の笑いだった。無邪気で害がなくて、とびきりくだらない。

しかし、それにもかかわらず、ぼくはこの映画を見た後、気分がいいと言い切れない何かを抱えさせられることになった。バカの行方について考えさせられたというのではない。ぼくははっきり言ってその点は何の心配もしていない。バカはつよくもないけど決して弱くないのだ。いや、むしろバカはつよい。つよいよわいを言い出すとこんがらがるけど、バカの行く先にはいつでも紙吹雪が舞うであろうことはほとんど確信を持っていられる。ようするにバカというのは絶対的な性質だ。相対的な基準である頭いい/わるいとはちがい、バカというのは絶対だ。

ぼくはたぶんバカではない。そのことはぼくの永遠の課題になるだろうということがこの頃ようやくわかりつつあった。そして、「ニュータウンの青春」ははっきりとぼくがバカではないことを突きつけた。だから、おもしろかったけれど、その分、苦々しさも大きかった。

たしかにぼくは頭がいい。でもそれは突き詰めると、頭がわるいひとに比べて、ということでしかなく、反対にめっちゃ頭いいひとに比べると、はっきり言ってぼくは頭がわるいことになる。でもだいたいにおいてめっちゃ頭がいいひとはそんなにはいないし、ぼくは今よりちょっとでも頭よくなりたいといつも思っているから、まったくそう思わないひとに比べると頭がよくなっているだろう。そのことを否定するつもりはないけれど、頭よくてバカになりたいというのが、ぼくの偽らざる本音で、それにもかかわらずバカにはなりようがないというのが今のぼくの実感だ。

価値観を固定させないで読んでほしい。少なくともぼくはここでバカをバカにしようとしているわけじゃない。当たり前だけど、バカという言葉が意味するのはバカなんだから、バカにしようと思ってもしようがない。ただ、ぼくはバカが好きだから、バカのことを書きたいのだ。

ぼくはバカを見て笑う。なぜならバカの言うことすることはズレていて、笑うに値するからだ。でもまあそれは方便というか、あとづけの理解で、たんにバカはおもしろいからぼくは笑うのだ。

ぼくはバカがおもしろいことに関して詳しい。学生時代、ぼくの周りにバカがいたからだ。バカは自分のやることで笑わない。だからバカと一緒にいるあいだ、ぼくだけがずっと笑っていた。いつも笑っていた。で、ぼくは、バカがおもしろいことは世の常識だと思うようになっていた。自分がバカじゃないのは残念だけど、ほかの凡人たちとバカを見て笑えばいいと軽く考えていた。しかし社会にでると、そうじゃないことが段々わかってきた。さっきぼくは価値観を固定させないで読んでほしいと書いた。こんな説明が必要なんだということ、説明に耳を傾けようともせず「バカが」と吐き捨てて終わる風潮をぼくは社会に出てから知り、ショックを受けたのだった。多くの人にとってバカはおもしろくなかったのだ! 頭がわるいひとは頭がわるいことを気にして、バカに思われないようにするということなんだろうか。これは全然笑えない。ぼくはお酒の席でそこそこ頭がいいと思っていたひとに、バカだねーということを言ったことがある。そのひともぼくと一緒でバカじゃなかったから、お世辞のつもりで、笑顔でそう言ったのだ。彼はそう言われて困惑した様子を見せた。ぼくは自分自身の頭のわるさにものすごく残念な思いがした。

バカはぼくにバカだと言われて気を悪くするだろうか。おそらく気を悪くするんじゃないかと思う。なにせバカだから。でもほとんど気にしないでそんなことすぐ忘れてしまうはずだ。なんといってもバカだから。ぼくがバカが好きだってことをバカに言う必要はない。ただ笑っていればいい。どっちにしてもバカはこっちに興味を向けないし、他人なんかどうでもいいという姿勢を持っているからバカなのだ。

優越感を持ってこれを書いていると思う人がいるだろうか。それはちがう、と、わざわざ言っておく。優越感なんてとんでもないことだ。かといってべつに劣等感を持ってもいない。こういうことを言わなければならないことが苦しい。バカは誤解しない。まあ長文を読まないだけかもしれないけど。頭がわるいことにコンプレックスを持っているひとは、頭がよくないだけでバカじゃないからどうぞ安心してほしい(自分はバカじゃないといって安心する人は頭がわるいと思うけど)。ぼくはひとつも安心できない。バカは頭がわるいという表れ方をすることが多々あるけれど、この二つはまったく別のものだ。頭がわるいのと同時に頭がいいのは無理だけど、バカなのと同時に頭がいいのは、珍しいけど可能だ。

こんなふうにバカはすばらしいんだと説明するのは嫌なことだ。力説するなんてなおさら嫌だ。すばらしいとか言うと、すぐにありあわせの価値観でバカを固定し持ち上げようとする安直なやつ。びっくりするぐらいすぐに。バカにするなと言いたい。いや、バカはすでにバカなんだからバカにできないんだと言いたい。こういうふうに言うと安直を裏返して、バカは本当は賢いんだというやつ。もちろん却下だ。バカはバカだ。賢いのは賢い。まったくちがうじゃないか。

そのわかりきったことを省略せずきちんと映画にした「ニュータウンの青春」はおかしい。しかも、バカを手段にするんじゃなくて目的にしている、バカの上にもバカな映画だ。それを見て笑っているぼくはやっぱりバカじゃない。あのときといっしょで、ぼくはステージを見上げるだけの存在で、拍手を送ることぐらいがギリギリ関の山だ。ぼくはそれが悔しい。笑った反動で身体の中で苦味カプセルが弾けるみたいになって、すごく苦々しいのに、笑わずにはいられない。

この映画を作った人たちに見せつけられたのは無理だと思っていたバカへの到達だった。聖域だと思って見上げていたバカの舞台に、こっち側から一步踏み入れていく瞬間を見せつけられた。超びっくりした。バカか、と思った。映画館でめっちゃ手叩こうかと思った。バカみたいに手叩こうかと思った。それ拍手?みたいなデタラメなやつ。