う飄々(仮)

いうてまじめやで。

僕は高校生だった、(ry

 

「桐島、部活やめるってよ」というすばらしい映画がある。

 

劇場公開中には、ツイッターでも「桐島」で検索すると絶賛コメントがたくさん出て、「ぜひ高校生に見てほしい」というコメントがいくつか目に入った。

 

でも僕は「そうかあ?」と思った。 高校生には推められない映画だと思った。

 

この映画がおもしろいのは間違いないけれど、現役の高校生が見て楽しめるものではないんじゃないかという気がしたから。

それは過去を振り返って見たときにその過去が輝いて見えるということともつながっていて、僕自身にしても、なんとなく高校が輝いているように思えるのも、それが過去の出来事だからということになる。

 

当時はそうじゃなかったろう、ということ。

僕は穏当な高校生活を送ってきたほうだと思うが、それでも、高校のときには結構追いつめられていた。もちろん狭い世界で。

 

見た人ならわかることだが、この映画には主人公がいない。

一応、主人公といえそうな人物はいて、僕はこの人物に感情移入して見たから、かれが主人公といえば主人公なのかもしれない。

で、こういう書き方をすれば「ああ、あの人ね」と大体わかると思うが、それにしたって「007」のジェームズ・ボンドのように確実ではない。映画部の彼が主人公だと言っても間違いじゃないとも思う。

 

この映画では、ある一日を別人物の視点で繰り返す。

そうすることで、教室が俯瞰的に見られるようになっている。すべての人物が相対化され、冷たい観察の目にさらされる。

虫瞰図で微細に追いかけることで、鳥瞰図的な人間関係の図形が浮かび上がる。そしてそれは決定的にしょぼい。一生懸命練習する運動部の輝きも、きらめく汗のイメージに回収される。

僕たちはしかし、いかにしょぼくても、簡単に一語で回収されるようなものでも、それらがすばらしいと感じて、感動さえする。なぜなら、過ぎ去ったことだから。

 

もし、あの時代が今も続いているプレーヤーとして「桐島」を見て、感動できるか。 

僕は無理だと思った。

 

「なんだあんなこと、本当にちょっとしたことにすぎなかったじゃないか」という達観がまずあって、

「でも、あんなに追いつめられて本気で、輝いていたよな」という郷愁を誘う。

 

はっきり言って悪趣味だと思う。 

巧ければ巧いほど、面白くできていれば面白くできているほど、悪いと思う。

悪ければ悪いほど、おもしろいといってもいい。

 

自分は簡単に相対化できる位置にいて、相手はそう簡単には相対化できないのに、その相手に感動させられたとか言って、だから相手にも見てほしいとか言う図に、僕は違和感をおぼえた。

野球部の先輩とか、バドミントン部の女子とか、吹奏楽部の女子とか、バレー部の新キャプテンは少なくともまだ見るべきじゃないと思った。たぶん、帰宅部のやつらだって。

 

でも、こういう意見こそ高校生をなめてて、彼らを一面的に捉えて、回収してしまっているのかもしれない。と、ついこの前、ふと思った。

僕は自分基準で考えて、もし自分が高校生だったら、こんな映画推めてくる大人に腹が立つだろうと想像したんだけど、急になんかそうじゃない気がして、考えをあらためた。

 

高校生でもこの映画に共感したり感動できるんじゃないか。 もう高校生じゃない自分には考えにくいだけで。

それから、部活に賭けてる人たちも、狭い人間関係に汲々している人たちも、もっといい加減なところもあるんじゃないか。 帰宅部だった自分にはわからないだけで。

 

こうして僕は、自分がまだまだ狭いところにいるなということを実感したのであった。

帰宅部をやめた今でも、ちょっとしたことにすぎない、なんて思えないことはまだまだいっぱいある。

 

なんか変につながっていて完全には切れていないから、手放しで感動もできないし、

そうは言っても当時はすでに終わっているから、手もなく感動しちゃうし、

なんていうかすごくムズムズする。

 

このむず痒い感じがなんとも言えないので、

「桐島、部活やめるってよ」

元・現役生にはとくにおすすめ。