う飄々(仮)

いうてまじめやで。

強度と、いうこと

 

最近気になっているよくわからない基準がある。「強度」という基準だ。

人生をバトルだと思っているのか知らないが、強度にこだわるのに何の躊躇いもない言説をネットで多く見る。

 

コミュニケーション弱者/コミュニケーション強者

情報弱者/情報強者

 

という価値観があって、その価値観の中で、たくさんの議論(?)が巻き起こっている。

そこでは、自分の意見が論理的に整合しているように労力が費やされ、相手の意見のいちばん言いたいことより、論理的矛盾や間隙を見つけようと血眼になって、ロジックに血道をあげている印象がある。

そして、僕がいちばん気になるのは、この手の言葉の中に、弱者はこうだという細かな物言いがあふれているのに比べて、強者については二言三言あればいい方で、大体は一言、強者は弱者とちがってそんな愚かなことはしないと、「〜じゃない」という形でしか語られないことだ。弱者について語るからには強者でないと、という意識は発展して、弱者について語っているのだから強者、という共通の認識が生まれていることも気になる。

僕がいちばん知りたいのは強者というか、いい方/わるい方あったときの「いい方」の様子なのに、それ自体は全然語られないまま、こういうのはダメだとか、ああいうのはクズだとかいうたぐいの呪いの言葉を無自覚に繰り返すゴミか、わざと悪意を持ってばら撒く卑怯者のどちらかしかいない。

これを強弱で言うと、卑怯者が強者で、ゴミは弱者だといえる。

どっちもダメじゃんということだ。

で、当然、こうやって書いていて考えざるを得ないのは、この文章も同じように、「〜じゃない」という書き方でしか、自分がいいと思うものを伝えられないということだ。

僕はこういうところにこそ技倆というものがあると思っていて、昔の人がえらいのは、何気ないエッセイなどの形で、自分のいいと思うものをそのまま伝えられたことだと思う。(昔の人というのは今も有名な昔の人というような意味だ。)

今は「対等」ということがもてはやされすぎているような気がする。上から目線という言い方が流行ったときには、有名人の上から目線がムカつくというようなことまでよく言われて、おかしなことだよと思った。そういうことを言っている人は、有名人は上にいるものだという基本的な事実を忘れていると思う。上というのがえらい/えらくない、すごい/すごくないということは置いといて、彼らがしているのは、壇上から何かを喋ることなんだから、一段高いところにいることは認めなくてはいけない事実だ。観客だって登壇者に向かってバカやろうと言うこともできるが、それは野次でしかない。言葉はすでに対等ではない。その代わり、壇上に立って間違ったことを喋ればその烙印はすぐで、ちょっとの猶予もない。

ようするに、有名人の人たちは壇上からパッと降りられない状況に立っているということで、少なくない制限を受けているのに、そんな制限も何もない聴衆が考えもなく発した言葉を尊重しろと強いるのは間違っている。その人なりの考えがあったとしてもそれは正しくない。というか、こういうことすら考えないで考えがあるもクソもない。自分の意見が大切なら、自分の発言が野次に聞こえてしまうかもしれないリスクをまず考えたほうがいい。

こういうことを言っていると、これもよく言われる「実名/匿名」の議論にどんどんなっていく気がするけど、あれもおかしくて、「実名/匿名」の基準に「有名/無名」という基準もどうにか合わせないと、基準自体が有効じゃなくなると思う。というかそもそも実名と匿名は厳密には対概念ではない。そのへんも混乱のもとだけど、そういうものだとされて顧みられることはない。

強/弱という基準もそれと同じで、強者だとしてそれが何なのかということがあまりに考えられていないような気がする。強者がいるとして、そいつはたぶん強弱についてなんか考えないと僕は思う。その意味で、最強は「金持ち」だと思う。こう言うと身も蓋もないけど、どれだけ弱者と定義づけられる中身でも、そんなことで起こる問題は金があれば大体解決することだし、今の世の大金持ちは強弱に縛られない、もっとも強弱の意識から遠いところにいられるという意味で、最強じゃないかと思う。敵いっこないんだと、ぜんぶ掌の上の出来事なんだと。しかもそれが仏様の掌の上なら心情的に納得もできるけれど、金持ちの掌の上というのはどうなの、と思う。あまりに切ないからやめてほしい。

強弱について喧々諤々する人たちは、基本的に弱者の軛から逃れられていないといえる。そのくせ、弱者を徹底して貶めようとするから、僕はそれがとても気になる。勝負に勝つのに強い方がいいのは格闘技に限らない。でも自分より弱い相手を叩いて「俺強い」と自分に嘘をつくのは、どういうわけなんだろう。僕にはそんなのは囚人に見える。

「そういうものだから」というのは僕がいちばん聞きたくない言葉の一つだ。しかし、牢屋に入っていて毎日「こんなのおかしい」と言っている囚人は、たぶん危険なやつだと思われる。徹底的にマークされて、擦り減らされる。そんなの関係ねえとばかりにゴリ押せるよっぽどの豪傑でないかぎり、そんな安易なことするべきじゃない。

弱者は弱者らしく、監獄のルールに従い続けて、内に「こんなのおかしい」の燠を燃やし続けることが大切なんじゃないかと思う。刹那的にばっと燃え立たせるよりも、炎を消さないことが何よりも重要だ。そのために嘘をついたり、自分の中に構造を作るのは必須で、時と場合では「そういうものだから」という意見に合わせるのもいい。演じることは弱者にとって生きる力だ。

一生、世を忍ぶ仮の姿でもかまわないと思っている。でもたぶんそんな立派なことはできない。仮面が剥がれ落ちたりもするだろうし、外したいと思わさせられる場面も来るだろうと思う。僕はそれもかまわないと思う。一生、正直でいる必要がないのと同じように、一生、嘘をつき通すこともない。

というか、誰もが相対的な弱者で、「強者なんかいない」というのが、この状況が表わしていることのすべてなんじゃないか。金持ちより金持ちなんかいっぱいいるし、そういうレースはあんまり面白味がない。

僕が弱者に望むのは「そういうものだから」という言葉がセリフとして言われるということだ。べつにチョキニギ(「”」の意)もウインクもいらない。悔しさを滲ましたような迫真でも名演でもいい。言いながら自分の嘘を意識する必要もない。でも、とにかく、本気で言っているとは思いたくないので、そういうのはぜんぶ演技として見る。僕はそうしないと擦り減らされるので。

一方、強者に望むのはハムレットのようなドラマだ。強弱を超えたところでしか見られないドラマを僕は見たい。

こうやって並べて考えてみるとやっぱり僕は強者のドラマの方に興味がある。強度ということにこだわらないところで展開されるドラマ。強弱の軸から離れて何が待っているのかということを本当に知りたい。