書評というのは人物が出る。
本を紹介するということは、その本を紹介する人自身を紹介することに近い。
もしかすると本の紹介というのは、自己紹介よりも、人物のことがよくわかるものかもしれない。書評をした人が、いま何に興味があるのかということがダイレクトに表れるからだ。
これによって、へたな自己紹介が陥ってしまいがちな自意識の隘路に陥らずに済むということもある。
というか、人にきちんと自分が面白いと思った本を紹介できる人は、自己紹介ぐらいパッとこなしてしまいそうな気がする。
書評とは、基本的にある本を、その本を知らない/まだ読んでない人にむけて紹介するというものだ。
これは考えてみれば自己紹介も同じことで、紹介するのが本ならば書評、映画なら映画評、アニメならアニメ評、自分なら自己紹介、ということになる。
自己紹介はともかくとして、何かを紹介する以上、基本的には紹介者はその何かのことが好きだと考えていいと思う。
少なくとも、どこかしら見るべきところ・おもしろいところがあったから、わざわざ他の人に紹介しようとするわけだ。
時折、有名だからという理由だけで紹介しているような文章があるが、そういうのは大抵かなり退屈なものだ。
客観性を重視するあまり主観を排したような文章も、気持ちはすごくわかるものの、ほとんどがおもしろくない。おもしろくないだけでなく、自意識を隠そうという自意識が過剰なようにも見えてしまう。
「好き」とか「おもしろい」とかいうのは、そもそも主観的な感情抜きには語れないはずなのに、潔癖症的にその影まで拭い去ろうとしてしまうのは不自然だ。その不自然を少し追うと、裏腹に、ものすごく主観的な嗜好がありえないほど目につく。
実際、そういうのを使ったテクニックもある。僕自身は、その手の手の込んだテクニックは嫌いじゃない。
話を少しもとに戻すと、本の紹介には、主観が許される部分が多分にあるということだ。自己紹介となると、逆に主観よりも客観が重視される。自分のことが好きだとしてもそれを前面に押し出すのは礼儀に反するし、押し出すのが「嫌い」という感情だとしても同様だ。
だから、自己紹介にはうまい/へたがあっても、それがつまらないものになることにはあまり差がない。照れ隠しというよりはルールとして、もっとも主観が排されなければならないのが自己紹介だからだ。
一方、書評にはそこまでかっちりしたルールがない。主観と客観の塩梅も、各々の嗜好次第、紹介する相手次第であり、きっちり区別されるというよりは大まかな傾向がある程度のものだ。
さらに、一番のかなめ・前提としてあるのが、まずその本が「好き」「おもしろい」ということ、あるいは「刺激を受けた」ということである。
そのことが共有されていれば、いかに主観を排したような紹介であっても、それはフリだと理解することができる。
一生懸命、客観に徹しようとする嗜癖的なこだわりも、紹介する本への愛として受け取れる。
そうすると自然と興味も湧いてくる。月並みな言い方だけど、血が通った言葉になるからだ。たとえ客観的事実を並べた箇条書きであっても、それを見出すことはできると思う。
そういうのはたぶん引用でも通じる。引用に血が通わないというのは嘘だと思う。
でも僕が思うには、引用するよりレビューを書くほうが手間が掛かるし、手間を掛けるということはそれだけ嗜癖的ってことだから、それだけでレビューに軍配を上げたい……。
だけど悲しい哉、非常にしばしば、書評よりも引用のほうが人に興味を持たせるのは、これはもう端的に事実だと思う。
しかし、引用以上に人に興味を湧かせる書評があることもまた、はっきりと事実だ。
ということで、以下に、最近僕が感銘を受けた書評を引用する。
評者の山崎正和さんは78歳を迎え、今がキャリアの晩年だと言っても過言ではない。
今週の本棚:山崎正和・評 『子供の哲学−産まれるものとしての身体』=檜垣立哉・著
毎日新聞 2013年02月17日 東京朝刊
http://mainichi.jp/feature/news/20130217ddm015070009000c.html
◇近代的自我を超える生殖の観点
近代の哲学は自我の存在、あるいは自我の意識を原点として世界を考えてきた。「われ思う、ゆえにわれあり」のデカルト以来、二十世紀初めのベルクソンやフッサールまで、意識する自己は疑いえない存在であり、万人に普遍的であって、生まれも死にも変化もしない恒常的な存在と見なされてきた。
だがこれはおかしいのではないか、という素朴だが革命的な疑問を掲げて著者はこの本を書いた。人間の自己は親から産まれ、みずから子を産む身体に伴われ、意識もまた産まれて死ぬ存在であるのは自明ではないのか。この疑問から、自我を断続するいのちの流れのなかに置き、生殖する身体と不可分の存在として捉える、新しい哲学の試みが始まるのである。
(中略)