さあ笑え、記憶の国のアリス
茶化すという行為が好きだ。
僕はよくふざけたり茶化したり、不まじめな方向に場の雰囲気を持って行こうと努力することがある。
うまくいかないと全身に針が突き立てられる思いをするなんてこともあるが、それも当たり前のことで、みんなマジメにやろうとしているのに変に茶化されたりしたらムカつくでしょう。舌打ちを我慢するような雰囲気は、じっさいに四方から舌打ちされるよりも囲まれているような気がして針のむしろだ。舌打ちなりなんなり、アクションがあればそれに対するリアクションもとれるけど、エア舌打ちに反応することはむずかしい。でも、そういった諸々がわかっていても茶化してしまう。
どうしてすぐ茶化そうとしてしまうんだろう。
コミックリリーフ(喜劇的救済)という言葉を初めて知った時、それだ!と思った。とくに漢字の喜劇的救済のほうは意味が直接伝わってきて、自分の求めてきた概念だと思ってものすごく腑に落ちたことをおぼえている。おぼえているというか結構最近のことだ。
この言葉のどこにそれを感じたのかというと、救済の部分だ。
はりつめた空気が得意な人はあんまりいないんじゃないかと思う。たぶん多かれ少なかれみんなが苦手に思っているはずだ。でも我慢する。そんな空気はずっとは続かないよと思って息を止めてやりすごそうとする。
僕も我慢する。が、人より長く続かない。そんなとき、単純に逃げ出してしまうこともあれば、何か工夫できるんじゃないかと周りを見渡すこともある。
周りを見渡せば面白いものは絶対に見つかる。場の雰囲気が真剣であれば真剣であるほど、面白いものはその面白さを増すし、ここだよーとばかりにキラキラ光る。ちょっとしたことがすごく面白く感じられる。マジメさとのギャップもあると思うし、ちょうどはりつめた風船の方がヨボヨボの風船よりも少しの衝撃で割れやすいみたいなことだと思う。
とはいえ、
かくいう僕も深刻な場面を人生のなかで演じたことが何回かある。
演じたといっても、その当時は演じるなんてまったく考えることもできないほど思いつめていて、マジメで、苦しかったり悲しかったりした。
でも、思い返すと、もっと上手く立ち回れたはずだと思わないではいられない。こう言うとシニシズムのように聞こえるかもしれないけどまったくそうじゃなくて(本当はそうなのかもしれないけど)、今の自分が当時の自分のなかにいれば、そうはしなかったということを記憶の中ですごく思う。
もちろん、そうはいかない前後があって、そうはいかないことになるというのも徐々に思い出していく。そのように記憶をたどっていくと、改善の余地がものすごく目に入ってくる。あれはともかく、これは無様なポーズだったなとか思わさせられる。
はっきり言って、悲劇を演じようとしていた部分というのは存在する。それがなんとも言えず、可笑しい。
いま可笑しいのであれば、そのときその視点を持ち得ていれば、茶化したりふざけたりして、笑わせられたと思う。そうするともしか助かっていたんじゃないかという、しようがないことを思ったりもして、可笑しい。
たぶん誰だって、これでよかったんだとはどうしても思えないことを抱えている。それはひょっとすると、いちばん救済が必要な部分なんじゃないかと僕は思う。
僕はそれなのに、それなのに僕は、茶化してふざけて不まじめな雰囲気を演出するどころか、悲劇的ポーズでオウンゴールをアシストまでして、一体おれは何をやっていたんだと、いまや泣いて悔しがっている。
そして、もっともっとうまく茶化せるようになりたいと歯噛みしながら決意している。