トゥルー・グリット、本物の勇気
これは文句なしに面白い。
賛否両論多いコーエン兄弟作品のなかでは、クセがなく比較的薦めやすい映画でもある。
彼らはアカデミー賞受賞作品「ノーカントリー」でも示したように、出来事の規模にかかわらず緊張した空気を切り取るのが抜群にうまい。大きな事件を描けば自動的に深刻な事態になるが、それをしない。むしろ事件の全体像を眺めればどこかミニマルな印象すら受ける。
そして、見る側を少しずつ裏切る展開というコーエン兄弟おなじみの手法も、緊張感に輪をかけている。いつ・どんな条件で爆発するかわからない爆弾ほど怖いものはない。
この作品も独特のクセがないわけじゃない。ストーリーテリングの力強さによって奇妙さをほとんど感じないようになっているだけだ。
だから落ち着いて見ると奇妙なシーンの連続だ。しかし初見ではまず落ち着いて見れないだろう。「どうなるのか」という緊張感と展開を追いかけながら見るのとで奇妙さは後方に回されたまま、山場を越え、この映画は終わる。
「なんかひっかかるけど、うーん、まあまあだったな」という評価をしてしまう前に、もう一度見てみてほしい。この映画「トゥルー・グリット」は傑作なのだから。心の底からブラボーとならないのなら、それはあなたの鑑賞眼は不足で、1回の鑑賞ではこの映画の素晴らしさを把握できないということでしかない。
2度めが1度めより面白い映画というのが稀にある。コーエン兄弟の映画はほとんどがそれだ。たとえばジブリの映画なんかも何回見ても面白さが失われないけど、それに近い。だから、ブラボーと思った人もあんまりしっくりこなかったという人も、ぜひ2度めを見てみてほしい。できれば物語の流れをおぼえているうちに。時間に余裕があれば即リピートをおすすめするぐらいだ。
奇妙さは、よくわからないもの=不快感として感じられることもある。何か腑に落ちない感じがくすぐったい。ひっかかる。しかしこれがあるからこそ、この映画は美しい。
では、奇妙さの正体とは一体何なのか? それを自分なりに考えてみた。
この映画のひっかかりは人物の特徴とつながっている。
コーエン兄弟の作品に出てくる人物はどれも生きている感じがある。
それは人物ひとりひとりが特徴を示しているからだ。ふつう(フィクションにとって)、人物の特徴というのは「長所」か「短所」だ。そして、キャラクターの「長所」と「短所」は、彼らにとって「役に立つ」もしくは「妨害する」ものとして、そのいずれであっても物語(プロット)の推進力となって働く。
たとえば、酒癖の悪いキャラクターがいれば、その酒癖の悪さが何らかの形で物語の進行に寄与するのが一般的だ。 飲み過ぎてドジを踏んで、それがもとで喧嘩になって・・・、というように。
コーエン兄弟の描く登場人物にはこういう特徴が欠けている。
描かれる人物の特徴が物語と切れているのだ。特徴は長所/短所としては描かれない。直接、物語進行の役には立たないで、価値の無い情報としてノイズのように人物に与えられる。
そして、それが人物を生き生きとさせる。物語にとって意味のない特徴を持った人物はその意味のない性質によって存在感を浮き上がらせるのだ。
どうしてラビーフは舌を噛むのか、どうして道具屋の子どもは馬をいじめるのか、マーシャルが子どもを蹴落としたのは馬をいじめていたからだとして、二回目に蹴落としたのはどうしてか。
このような小事件は、その時々にはわからなくても、後々、伏線として回収されるのか。
(以下、ネタバレを含みます)
されない。
もちろん人物の特徴が物語を左右することはあるだろう。でもそれは直接的にではない。左右するといっても、どちらかと言えばかなり遠回しに、間接的に左右するような感じだ。
「小事件=伏線」という見方が癖になっている人にとっては、それらが回収されないことでちょっとしたストレスを引き起こしてしまうかもしれない。でも、映画にとってプロットはあくまでその一部だ。少なくとも全部とはいえない。半分ぐらいじゃないかと僕は思っている。
では、トゥルー・グリットが他のコーエン兄弟の作品のなかでもとくにオススメなのはなぜか。
カット・・・オーソドックス
シークエンス・・・奇妙
プロット・・・オーソドックス
これだ。
そのままでは奇妙味が強すぎるところを、より細かなレベルでのオーソドックス(カット)とより大まかなレベルでのオーソドックス(プロット)にサンドされることで、ちょうどいい食べやすさになっているのだ。
オーソドックスについて触れると、
まず、カットはきわめて正統派で、オーセンティックともいえる撮り方をしている。どのカットも見ていて気持ちいいものだ。どの一瞬を切り取っても写真として通用する気がする。
これがあるから何回でも見たくなるのだ。プロットを追いかけるだけなら一度で満足してしまうはずだけど、それだけじゃないからまたもう一度見たくなる。
さらに、それぞれのシーンは奇妙な印象でありながら、全体を通してみると、まったくもってオーソドックスな展開の話になっているという点も大きい。
「えーと。 結局、何の話?」という事態にはならない。どう見たって少女マティ・ロスによる立派な復讐劇だ。
復讐劇というしっかりした軸があるからこその見応え。見終わった後の、荘厳な物語だけが手にすることのできる余韻の深さ。 なかなかのものだ。
しかし、というかやはりというか、何より注目に値するのは、シーンの単位で見たときの奇妙さである。
これがあるからこの映画はおいしいのであって、やっぱり外せないのはこの部分だ。他と違う味がたしかにある。
人物の描写に際して、物語にとって無駄なものを積極的に取り入れることにより、人物にリアリティ以上のものをもたらしているということは上にも述べたとおりだが、その方法はというと、人物の間抜けな部分を描くというものだ。
ただ、間抜けといっても、笑えるだけではなく、どこか油断できないものを含んでいる。
サスペンスにちかいコメディ、あるいは、コメディのようなサスペンスと言い表わされるジャンルがあるが、「トゥルー・グリット」もまさにそのとおりの要素をシーンに含んでいる。緊張感を失わないことで、コメディ部分が活きる。そのバランス感覚は見事なものだ。
全部が全部それという「バーン・アフター・リーディング」という映画もある。ブラピとジョージ・クルーニーが出てくるものの、これは上級者向けかもしれない。
物語を動かすのは登場人物だ。彼らが銃の引き金を引くとき、彼ら自身の思いがあるはずだが、何が動機になっているのかはわからない。直接的な動機があるのかもしれないし、ないかもしれない。その意味で、やはり無駄なシーンはないともいえる。何がその人物を表すのかということは簡単に定式化できることじゃないし、一見すると無価値な特徴のほうが人物に説得力を持たせられるから。
見え方として、
1.きっかけA→事件B ではなく、
2.小事件A→??→大事件B だということ。
いくぶん唐突に見えるような行動も、人物の心の中というブラックボックス内で起こった出来事の結果として見ると納得できることもある。
人物の心の中というブラックボックスの存在が認められるためには人物が人間である必要がある。
そして、それが「人間だから」という下手な言い訳になるのではなく、本当に「人間」を感じさせるためには、物語をあえて脇においてまで、人物の描写に力を入れるという一貫性が必要になる。そのことを念頭に置いてシーンを作っていくと、ちょっとしたねじれというか、スムーズではないザラザラしたものを物語に含ませることになる。それこそが奇妙さの原因でもあり、おいしさのヒミツでもあるのだ。
トゥルー・グリットが本物の勇気だとするなら、それはただ示されるだけでなく、たしかに感じられないといけない。そして、それが感じられるためには、登場人物が人間である必要がある。その点本作はかなりいい線いってると思うのだ。
さらに、相補的にからんでくるカットの美しさ、物語の力強さが説得力に輪をかける。
自分はまだ数えるほどしかこの映画を見ていないことを思うと、その理由としての忙しさははたして"本物"だろうかと首をひねらずにはいられない。