う飄々(仮)

いうてまじめやで。

花火にデジカメを向ける人たち

 

学生時代、人格的に模範的な優等生だった私が唯一無条件に馬鹿にし、馬鹿にすることを自分に許し、どころか積極的に奨励さえしていた類の人間たちがいる。

花火の写真を取ろうとする人たちだ。

私は、この人たちだけは唯一、軽蔑していた。

一瞬の輝き、その美しさがわからないのか豚どもめ!とあからさまに蔑んでいた。

花火が開いた一瞬、その一瞬のあとの、消えていく光りの儚さにこそ・・・、

光の残響を無視して、しこしこと今取った画像の確認。タイミングよくシャッターを切れるかどうかのゲームに興じる姿はあさましく、みすぼらしく、無粋で、「花火モード」で撮影するというおぞましいまでの醜態を晒していた人たち。しかも一箇所ではなく、あちらこちらで。

そのような吐き気を催す行為をあちこちでやられると、花火を見る以上はその姿も視界のすみにとらえないわけにいかず、君たち、今だけでいい、消滅してくれないか、と、半ば本気で祈念したものだった。

知人にもその種のデジカメ小僧がいて、花火の写真を取っていた。見ないでもわかったが、そいつの曰くベストショットは言いようもなく無様だった。花火画像というものの情けなさが完璧にとらえられていて、あんなに美しいと思って見たものが、こんなになってしまうのかと呆然としてしまった。むかついたし、かなしかった。

近い未来、振り返ってその写真を見ても、何にも伝わらないだろうという確信だけがあった。むしろ画像が記憶を矮小化し、冒涜するのではないかと不安になって、はっきり見ない前にカメラを突き返したのだった。

 

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今、あの美しい花火は過去になった。

私は方針通り、花火の写真は一枚も持っていない。花火の一瞬、美しかった一瞬の印象だけは期待通りに今も残っていて、そのことにちょっとした満足をおぼえている。

それと同時に、デジカメの設定をミスしたのだろう、花火の輝きに向かってフラッシュで応酬した一台のデジカメの間抜けさが、花火と同じように、いや、それ以上にはっきりと思い出される。

そのときの自分がそのフラッシュの光にどう印象を受けたのかまでは覚えていない。唾棄したのかもしれないし、もしかすると今感じているように悪しからず感じたのかもしれない。

思い出してみると、わるくないとおもった。

間が抜けていて、あさましいけれどいじましく、単純で弱々しく、場違いで気恥ずかしい、生っ白い閃光。

流れていくものを掴み取りたいというむなしい望みにふさわしいように思える。

 

あのデジカメは、どんなにしょぼい写真を取ったのだろうか。今となっては少し気になったりもするような気もする。