う飄々(仮)

いうてまじめやで。

風立ちぬの印象的だったシーン

 

「風立ちぬ」を観た。ネタバレ無しに感想を書くような器用な真似は、できなくもないけど面倒なのでネタバレに配慮せず書く。とはいえ、ネタバレしてどうこうというような物語展開でもないので、あまり気にしないでいいと思う。未見でこの文章を読んでも要領を得ないんじゃないかとは思うけど、それは受合わない。

 

「風立ちぬ」は主人公の二郎が寝ているシーンから始まる。どんな映画でも初めのシーンは重要度が高いことから考えると、この蚊帳の中で寝ているシーンの意味は大きい。

一番最初の寝ているシーンで起こることは二つである。

ひとつは小型飛行機に乗って、空を飛ぶこと、そして乗っている飛行機が墜落すること。これは夢をみる中で起こることである。もうひとつは目を覚ますことである。

一連のシーンでは「夢」というものの比重が大きいということをまず明らかにしている。そして、飛行機が堕ちる夢をみていながら、目を覚ました二郎に動揺がみられないことは、彼が一度ならずそのような夢をみていることを示す。

 

フィクションのなかで夢が描かれるとき、重要になるのは現実の描き方である。現実パートがしっかりしていないと夢は夢でなくなるからだ。だから結局、夢が重要であるということは現実が重要であるという意味でもある。

しかし、「風立ちぬ」で墜落のシーンは現実パートでは描かれない。夢、回想、「物語の先」のイメージでしか墜落は描かれないのである。飛行が夢だとすれば墜落は現実に対応している。冒頭のシーンでも二郎は墜落して目を覚ます。

宮崎駿は意図的にそのような描き方をしている。ドイツ留学のシーン、夜道を散歩する二郎の目の前でドイツ軍人が誰かを追いかけて捕まえる場面がある。その場面は直接描かれず壁面に映る影として描かれている。注意しないといけないのは、現実は描かれていないのではないということである。

夢と現実が一対であるように、飛行と墜落はコインのうらおもてである。

ファンタジー作家たる宮崎駿が夢を描くにあたって、飛行的なるものだけではなく、同じ夢の方法で墜落的なるものを描いたところにファンタジー作家としての面目躍如がある。夢=飛行を超えて、夢=飛行・墜落とするところ、現実のなかに現実を描かず、夢のなかに現実を描くというところこそ、宮崎駿の誠実の表れではないかと思うのだ。

 

ただふたつ例外があって、絵の画面を汚す喀血の赤と、震災による火事の赤だけは直接描かれている。正直に言うと、僕はここでただひとつと言いたかったのだけど、映画では、現実に、火事の炎も間近にあって図書館の本を焼いていた。この両シーンは印象的だった。とくに菜穂子が喀血するシーンは深い印象を残す。

 

現実と夢とを当然のように区別したが、二郎のみた夢は彼自身にとっては現実の一部である。飛行機を作る夢も二郎にとっては明瞭な現実である。それは鯖の骨ほどに確かで具体的なものに感じられているだろう。それらが他人にとって何ほどのものでもないとしても、二郎にとっては欠かすことができないのだ。

「機関銃を乗せなければ飛べるのに」と二郎がぽつりと漏らすシーンがある。周囲は気の利いたジョークを聞いたように大笑いでそれに応える。うっとうしい現実を度外視した冗談に捉えたのだ。ただ二郎ひとりが大真面目である。次郎が大真面目で言っている事はよくわかる、よくわかるが、客観的にみたら可笑しいというところが可笑しい。

悲愴と滑稽が同時に画面に表れているシーンは感動せずにはいられない。電報を受け、あわてふためき滑って転ぶシーンなどはその最たるものである。

 

「風立ちぬ」はメロドラマチックなものを前面に押し出し、墜落的なものを後景に退かせた映画である。メッセージは明確で「生きねば」である。このあたり、エロス・タナトスという言葉で説明することもできるだろうが、どちらかを重視し、どちらかを抑えたという見方をするのはちがうと思う。

前面に押し出したから重視しているという見方を否定するわけではない。そこには直接描こうとすることの意図があるだろう。その意図が表現を補強する。

同時に、ほのめかしで描こうとすることにも意図があり、その意図も表現を補強していることには変わりなく、むしろ隠そうとするところにこそ重視しているものがあるとすることも否定できない。どちらがより強いかということは一概には言えない。

 

「現実を描いても仕方がない」と言いながら墜落的なるものをしっかり描いているところに一番驚かされた。驚いたのは僕が現実=墜落というイメージを強く持っていたからだ。それは飛行=夢=甘美なものというイメージに裏打ちされている。

僕はそのようなイメージの連なりをとくに「甘え」だとは思わない。夢はやさしく、現実はきびしいという意見もこのイメージにつながるだろう。この手の意見がきびしいものだとはまったく思わないが、だからといって甘えた意見だとも思わない。

宮崎駿の「風立ちぬ」はしかしそこに留まらない。相対的にきびしいところにたって進んでいると思う。もし現実に墜落的なるものを描いていないというだけの理由でこの姿勢を逃げだ甘えだと見なす意見があれば、その人はよっぽど甘ったれだと思う。

 

宮崎駿がなぜ庵野秀明の声がいいと思ったかの理由は、自分にとって「風立ちぬ」がどうしてこんなにも響いたのかという理由につながっている。そしてその理由は宮崎駿から発されているものに由来すると思うのだ。